神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

大下水

2018-12-25 05:52:47 | 江戸川・紅葉川

 「大下水は市ヶ谷田町より牛込揚場町を歴て船河原橋脇にて江戸川に合す此下水の成し年代等詳ならされと寛永十八年堀千之助御手伝にて石垣を築きしよし伝ふれば古き下水なる事論なし・・・・下流までを通して紅葉川なぞ書しものありその実は無名の大下水なり」(「御府内備考」) → 「正保年中江戸絵図」(正保元年、1644年ころ)にも、外堀と並行する水路が描かれており、前々回述べた自然河川の代替として、外堀完成時に開削されたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 大下水は船河原橋の手前、右手から合流していました。左手に開いているのは、水道橋分水路の呑口です。

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    2. 飯田橋駅前の陸橋から、市ヶ谷方向の外堀通りです。大下水は通りの右手を並行していました。 

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    3. 軽子坂下を通り、神楽坂下に向かいます。軽子(軽籠持)は軽籠に荷を入れて運ぶ人足のことです。

 <揚場町>  外堀通りの牛込台寄りは、当初は武家地が占めていましたが、通船が可能になり揚場も設けられると、揚場町と呼ばれる町屋が出来ました。以下はその揚場町に関する「御府内備考」の記述のうち、今回の大下水についての抜粋です。「大下水幅壱間 右は南の方より北の方へ流牛込牡丹屋敷より御武家方前通流来末は江戸川え落入申候両側石垣石橋とも寛永年中堀千之助様御手伝に而」「石橋 長九尺幅壱丈壱尺三寸 右は町内南の方横町御武家方境より軽子坂上り口大下水に掛有之石敷七枚に而橋の字無御座」 なお、最初の引用文中の牡丹屋敷ですが、神楽坂下にある紀州出身の岡本某の屋敷で、将軍献上の牡丹を栽培していたことから、そう呼ばれたものです。