「中野区史下巻」(昭和19年)によると、中野区第二土地区画整理事業の概要は次のようなものです。整理組合の発足は昭和2年(1927年)、工事は淀橋町境から和田堀町境までの神田川流域15.9万余坪、その所有者117名を対象に、翌年早々に着工されました。昭和14年には検地処分を終え、総工費は昭和15年現在で概算87万円となっています。「都市計畫道路幅員一一乃至二二米の三路線を基準とし、區劃整理街路を通じ、また低地には土盛をなし、神田川の改修に伴うて、地區内土地の利用を阻害していた高壓線鐵塔を整理して神田川の上に跨らしめた。」
- ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野」 前回UPの→ 「大正10年第二回修正」と同一場所、同一縮尺です。
同じ「中野区史」の数字ですが、この整理事業によって、12万坪の宅地と4万坪の道路、水路用地を創出、うち道路、水路用地は従来の1.7万坪から二倍以上の増加となっていて、二つの「地形図」を見比べた印象と一致します。なお、引用文中の「都市計畫道路幅員一一乃至二二米の三路線」は、今日の中野通り、山手通りなどのことで、中野通りのところでも触れたように、事業地域のみ先行して拡幅、開通がなされています。
- ・ 整地碑 昭和17年の日付のある中野区第二土地区画整理事業の記念碑が、藤神稲荷の境内片隅にあります。最近改修された藤森稲荷は→ こちらでどうぞ。
- ・ 神田川 花見橋から下流方向で、月見橋と中ノ橋が重なって見えます。花見橋、月見橋は区画整理時の創架、一方、中ノ橋は古くからの橋ですが、場所はだいぶズレています。