神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

弥生町4の水路3

2018-02-09 06:19:48 | 神田川4

 本郷橋と柳橋の間で右岸から合流している小支流を追っての三回目です。流路の大半が弥生町4丁目に属することから、仮に弥生町4の水路と名付けましたが、江戸時代は「新編武蔵風土記稿」に「村の東北の方にあり」と書かれた、雑色村の小名川島に属するところです。前回UPの正蔵院も今回の氷川神社も、ともに小名川島に属しており、雑色村の中心は多田神社、宝福寺のある本村と、この川島に二分され、その間を→ 「雑色村絵図」に描かれ、「豊多摩郡誌」が「雑色道」と呼ぶ道が結んでいました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 引き続き水路跡の路地を南に向かいます。徐々に狭くなっていて、通り抜けできるか不安です。 

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    2. 狭いながらも水路跡らしく、左右に蛇行しています。

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    3. 栄町公園に突き当たって中断します。右写真は左手からのショットで、そのまま行くと→ 氷川神社に出ます。 

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    4. 栄町公園の先で方南通りを越えます。区画整理当時、方南通りは栄町通りと呼ばれていました。

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    5. 越えた先の水路跡の道路です。すぐに右カーブします。

弥生町4の水路2

2018-02-08 06:11:54 | 神田川4

 本郷橋と柳橋の間で右岸から合流している小支流を追っています。流路の大半が弥生町4丁目に属することから、仮に弥生町4の水路と名付けたものです。明治、大正期の地形図を見ると、水路こそ描かれていませんが、狭いながら田圃が描かれています。昭和初めの区画整理の際、田圃はほぼ消滅し代わって碁盤の目状の道路網が出現しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 通りを越えた先で右カーブです。ここまでは300m弱の直線コースでした。

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    2. 左手台上には「新編武蔵風土記稿」に「小名川嶋の内にあり」と書かれた→ 正蔵院があります。

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    3. このあたりが田圃の先端でした。右写真は右手からのショットです。 

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    4. ここからは水路単独を思わせる狭い路地になります。

弥生町4の水路

2018-02-07 06:30:52 | 神田川4

 中野通りに架かる寿橋の次は本郷橋ですが、さらにその次の柳橋との間に、右岸から小支流の合流があります。 → 「段彩陰影図」で、中野通りの東側をほぼ平行する細長い谷筋がそれで、→ 「東京近傍図」には水路も描かれています。ただ、「近傍図」では右岸流に合流していますが、土地区画整理事業によって廃止された後、本流に直接合流するよう付替えられ、現在の痕跡もそうなっています。なお、「近傍図」の右岸流は本郷堰から分岐しておらず、雑色村の右岸流から連続しており、その辺の事情は不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 本郷橋と柳橋の間のこの路地から始めます。

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    2. 本郷通りを越えます。付替え以前はこの付近で右岸流(本郷用水)に合流していました。

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    3. ほぼ直線で250mほど続きます。その間直交する道路はすべて区画整理事業の産物です。 

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    4. 右写真は左手(右岸)からのショットですが、微妙ながら谷筋が横切っているのが分かります。 

中野通り

2018-02-06 06:43:54 | 神田川4

 中野通りは都道420号線のうち、千川通り、ないし目白通りから甲州街道、ないし井ノ頭通り間の通称で、山手通りと環七通りの中間にあって両者の役割を一部補っています。神田川とクロスする区間は、昭和2年(1927年)発足の中野町(のち中野区)第二土地区画整理組合により、他に先行して開通しました。寿橋の架橋もその時で、昭和8年の「中野町史」によると、橋長7.27m幅員10.91mのコンクリート橋でした。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  前回UPの→ 「昭和3年第三回修正」と同一場所、同一縮尺で、現行の神田川をブルーで、本郷通りと中野通りをグレーで重ねています。

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    ・ 中野通り  右岸段丘の際から寿橋方向のショットで、左手に見える崖面下を右岸流、その先の横断歩道が本郷通り、さらにその先が寿橋という位置関係です。 

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    ・ 神田川  中野通りに架かる寿橋から下流方向です。次の本郷橋がチラッと見えていますが、この前後の橋はすべて中野町第二土地区画整理組合の事業の結果です。 

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    ・ 本五ふれあい公園  上掲写真の左手マンション裏にある、多目的運動場を含む公園です。改修以前の神田川は北寄りに蛇行しており、このあたりが流域でした。

区画整理2

2018-02-05 06:56:28 | 神田川4

 地下鉄中野富士見町駅前の神田川左岸は、東側の中野区と西側の杉並区で二分されます。江戸時代の本郷村と和田村で、明治に入り、ともに四村の合併によって中野村と和田堀内村になり、のち中野町と和田堀町になりました。ところで、「昭和3年第三回修正」をみると、町境を画する「-・-」線以外にも、両者の違いは一目瞭然になっています。中野町(のち中野区)第二土地区画整理組合の発足は昭和2年(1927年)、和田堀町第一土地区画整理組合は同5年、その間に入る「昭和3年第三回修正」によって、区画整理のビフォー&アフターが切り取られたかたちです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三回修正) / 中野」  現行の神田川をブルーで、本郷通りと中野通りをグレーで重ねています。

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    ・ 区整碑  昭和18年の日付のある和田堀町第一土地区画整理の記念碑は、地下鉄中野富士見町駅前にあります。背景の橋は富士見橋で、杉並と中野の区境に架かっています。 

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    ・ 本郷通り  富士見橋から東に向かってのショットです。本郷通りは和田堀町第一、第二と事業が進展するにつれ、西側に延長され、今は環七通りにまで達しています。 

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    ・ 神田川  富士見橋から下流方向です。改修以前はより左手に膨れており、上掲「地形図」の町境はもとより、現在の区境にもその名残をとどめています。

本郷村境

2018-02-03 06:51:25 | 神田川4

 善福寺川との合流後、神田川は右岸段丘といったん接し、多田たんぼを灌漑していた右岸の用水は、ここで流路を失い本流に戻ります。その後、左カーブで段丘から離れますが、そこに改めて堰が設けられ、本郷田圃を灌漑する用水が分岐されます。この用水は段丘沿いに東に向かい、現山手通りを越えたところで本流に余水を落としていました。このように用水が不連続となるところに村境が設けられる例は、これまでもたびたび見てきたところですが、ここも例外ではなく、新たに分岐した右岸流が、おおむね雑色、本郷の村境を画していました。→ 「雑色村絵図」にある通りです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 神田川5」(1/18000)  オレンジ線は区境で、中央にあって大半を占めるのが中野区、そこから時計回りに新宿区、渋谷区、そして西側は杉並区です。 

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    ・ 神田川  奥に見えるのは富士見橋で、右手は地下鉄中野富士見町駅です。この付近に堰が設けられ、駅の裏に迫る→ 右岸段丘に沿っていました。 

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    ・ 右岸段丘  中野通り手前の右岸段丘で、このあたりから段丘下の田圃は本郷村、段丘上は雑色村に属していました。全体が本郷村となるのは中野新橋先です。

 <本郷堰>  以下は「中野区の史跡(中野の文化財)」(1994年 中野区歴史民俗資料館)の引用です。「地下鉄丸の内線の富士見町駅を降ります。右脇の佼成病院前は、もとは木々が生いしげり崖のすそを神田川が淵をつくり、修行者が身を清める場所になっていました。ここに村人が川岸の芦で草堰をかけ、本郷水田への水をとりました。この本郷堰から本郷用水は本町一丁目で本流に入るまで、台地に沿って、春から秋にかけて美しい小川になっていました。江戸時代いらいのこの堰も農地の宅地化につれて大正ごろから消えました。」 明治17年(1884年)に行われた「田用水に関する調査」に「雑色村ニ本郷村ノ堰壹ヶ所アリ」と書かれているもので、堰自体は雑色村に属していたようです。

 


善福寺川合流

2018-02-02 07:05:19 | 神田川4

 神田川と善福寺川の合流地点が現在のようになったのは、昭和初期から段階的に行われた区画整理事業によってでした。昭和2年(1927年)に発足した中野町第二土地区画整理組合によって、淀橋から杉並区との境までの改修が先行、それを引き継ぐ形で、和田堀町第一土地区画整理組合が区境から善福寺川の駒ヶ坂橋までを改修しました。現在の和田1丁目に相当するエリアです。同組合は昭和5年の発足で、事業は同17年までかかりますが、その成果の大半は「昭和12年第四回修正」に反映されています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野 」 → 「明治42年測図」と同一縮尺、同一個所なので、土地区画整理事業の進展を時系列で追うことができます。

 次いで、昭和16年に相次いで発足した中野土地区画整理組合、和田堀町第二土地区画整理組合によって、合流地点以降の神田川と駒ヶ坂橋以降の善福寺川の改修がなされ、現行のようになりましたが、うち中野土地区画整理組合の事業の途中経過は、前回UPの→ 「昭和22年空中写真」で見ることができます。多田田圃と呼ばれる水田地帯の中央を流れていた神田川を左岸段丘沿いに付替えたため、合流地点は100mほど上流に移転しました。段丘沿いに元々流れていた左岸流を拡幅、本流に転用したようです。

 

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    ・ 合流地点  神田川の流路を本来のものより左岸段丘寄りにしたため、合流地点が100m近く上流にずれました。正面奥の蛇行している付近に、神田川は右手から流れてきたことになります。

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    ・ 神田川  合流後の神田川で、上掲写真の蛇行している付近です。奥に見える橋は和田見橋、架橋当時の左岸杉並区和田本町と右岸中野区富士見町からのネーミングです。 

区画整理

2018-02-01 06:56:23 | 神田川4

 方南通りの開設や前後の神田川の改修、整備は、中野土地区画整理事業の一環として、旧雑色村の西半分に属する神田川、善福寺川流域5万6千余坪を対象に、その宅地造成を図るものでした。区画整理事業組合の結成は昭和16年(1941年)、同年勃発した第二次大戦と引き続く戦後処理のため、当初計画は大幅に遅れましたが、途中、帝都高速度交通営団(現東京地下鉄)による車庫用地買収が追い風となり、昭和35年に全事業の完成に至りました。これまで見てきた橋の設置や中野第一中学校(現南中野中学校)の開校が、昭和30年代前半に集中しているのは、こうした事情によるものです。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  昨日UPの→ 「明治42年測図」と同じ縮尺、同じ位置関係なので、比較してみてください。第二次大戦から戦後の中断期にかけての事業の進捗状況が一目瞭然です。 

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    ・ 神田川  方南通り、栄橋から下流方向です。奥の高層マンション前が左岸段丘の位置です。段丘沿いにあった旧本流は、マンション手前で段丘を離れ、右手の東京メトロ方向に流れていました。 

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    ・ 東京メトロ中野車両基地  方南通りに架かる歩道橋の上からの撮影です。手前が百数十両の留置能力を有する車庫のエリア、正面奥に見える建物が重要部検査、全般検査(車検のようなもの)を行う工場です。

 <区整碑>  以下は中野区画整理事業の完成を記念した→ 区整碑の記述から知れる同事業の概要です。対象は中野区南部富士見町、広町、栄町通二丁目、三丁目、多田町、雑色町、八島町となっていて、旧雑色村の西半分、中野通り以西にあたります。ちなみに、栄町通の名がありますが、方南通りの元となった通りを指し、栄橋の名の由来になったものです。組合の認可は昭和16年8月、第二次大戦の勃発で計画遂行は危ぶまれますが、同19年に帝都高速度交通営団が、すでに着工していた丸ノ内線の車庫用地として、雑色村の米どころ多田田圃1万8千余坪の取得を申し入れ、このことが追い風となりました。