神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中野村

2018-02-23 06:16:08 | 神田川4

 「中野村は、郡の東にあり、郷庄の唱をうしなふ、江戸日本橋より行程二里半、・・・・村の広さは東西十六町、南北二十丁余、東は神田上水をかぎり、川の向は豊島郡柏木村なり、西は当郡高円寺村にとなり、南は本郷村、同新田、和田村等に接し、北は新井、上高田の二村に及び、豊島郡上落合村にもつゞけり、村内平にして土性は野土なり、用水には神田上水を用ゆ、是は田方十一町の所にかぎれり、残り二十丁余は所々の清水を用ゆ、旱損の時は上水も減し、自ら所々の清水涸るゝゆへ患少なからず、民家三百四十五軒」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は中野町当時の町、大字境です。

 「村名の起詳ならされど、此辺すべて武蔵野なればその中の村といふ意なるか、已に古くは上野、中野、下野共にありしが其後上下の名は失ひて中野のみ残りしなりと云、・・・・『小田原家人所領役帳』に七貫文島津又次郎中野内正歡寺とあり、又太田新六郎知行八十四貫文、中野内阿佐ヶ谷、土志田源七郎一貫文中野内大場など見えたり、これをもて見れば、阿佐ヶ谷、大場など何れも古くは当村の内に属せしか、又は此辺の村にて当村はことに広かりしかは、すべて中野といひ習はせしより、いつとなく中野の文字を負せて称することになりゆきしにや、既に卯右衛門が所蔵の文書に中野郷五ヶ村とみえたり」(「新編武蔵風土記稿」) 

 

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    ・ 氷川神社  「氷川社 除地、一町二段八歩、村の中央よりは東南の方によりてあり、・・・・村内宝仙寺の持」(「新編武蔵風土記稿」) 桃園川を左岸から望む台上にあります。  

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    ・ 宝仙寺境内  「宝仙寺 境内一万五千五十二坪、往還の内小名中宿下宿の境にあり」(「新編武蔵風土記稿」) 手前の三重塔は、焼失した寛永13年(1636年)建立のものを模して、平成4年に建てられました。