神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

淀橋

2018-02-27 06:17:04 | 神田川4

 「淀橋 東の方村界にて神田上水に架す、幅三間長十間許」(「新編武蔵風土記稿」) 「板橋 角筈村ニアリ淀橋長七間幅三間三尺」(「東京府志料」) 「淀橋 青梅街道上本町(淀橋町)の西端中野町との境を流るゝ神田上水堀に架したる木橋にして長六間幅三間あり、明治四十一年十二月中架換へたるものなり」(「豊多摩郡誌」) ここまでは木橋でしたが、昭和18年(1943年)発行の「中野区史(上)」では鉄筋コンクリート橋です。「大正十四年七月、青梅街道改装と共に幅員十間の鐵筋混凝土橋に改造せられ、上には西武電車が通り(これは大正十四年以前からである。が、最近市電となった。)交通上の規模も大きくなり、利便を加えたが、往時の景致は失はれてしまったことは惜むべきである。」

 

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    ・ 淀橋  右上は大正9年撮影の木橋時代の淀橋、左下は大正14年に架け換えらた淀橋で、中野坂下を通る西武電車も写っています。「中野町誌」(昭和8年)に掲載されているものです。 

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    ・ 淀橋  一つ上流の豊水橋からのショットです。右手は東電淀橋変電所で、今クールの最後に扱う予定の神田上水助水路の合流地点です。 

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    ・ 淀橋  平成17年に新装なった淀橋ですが、親柱の→ 裏には大正14年の文字が刻まれ、当時のものを再利用した旨書かれています。 

 <名前の由来>  豊島郡、多摩郡の余戸を移住させたので「余戸橋」、中野、柏木、角筈、本郷の四村が接するから「四所橋」、水ないし通行人が淀んでいるので「淀み橋」といった諸説ありですが、いちばん有名なのは三代将軍家光命名説です。かっては「姿身ずの橋」と呼ばれていたが、鷹狩に訪れた徳川家光が、景色が淀橋に似ているのでそう命名したというものです。「姿身ず」云々については、例の中野長者伝説が関係しています。中野長者、鈴木九郎は莫大な財産を隠したが、その発覚を恐れ、手伝った家来を殺してしまった。その姿が見えなくなったので、「姿見ず」というものです。あるいは、この悪行の報いからか、可愛がっていた娘が婚礼の夜、橋のあたりで身を投げた、というのもあります。大正の初めごろまで、花嫁行列は淀橋を渡るのを避けたそうです。