片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

オーケストラの演奏中にチェロが空中に吊り上って行く話

2012年02月16日 | チェロ奮戦記
グレゴール・ピアンティゴルスキーというチェリストがいた。
ロシア生まれのチェリストだ。
今「チェロとわたし」という彼の自伝を読んでいる。
1903年生まれで、7歳の時父からチェロを習い9歳でプロデビュー。
プロと言っても、お金が稼げるなら飲み屋だろうがなんだろうがどこでも弾く。9歳からチェロが身体の一部みたいになっている。

そんな彼が、あるオーケストラに入っていた時のことだ。
嫌いな客演指揮者が来た。
傲慢な指揮者が彼は気に入らない。そこで一計を案じた。
本番のとき、非常細い目に見えないくらいの糸を買ってきて、友人の実直なチェリストのエンドピンに結び、天井の梁を通して舞台袖の友人に持たせた。
演奏がクライマックスになったとき、ピアンティゴルスキーは友人に目くばせした。
友人はそろそろと糸を手繰る。
すると実直なチェリストのチェロがだんだん宙に浮かびだす。
実直なチェリストは、必死に演奏を続けようとするが、とうとうチェロは空間に浮かんでしまい演奏会は台無しになった。

この本を読んでいると、ピアンティゴルスキーは、日本で言えば、流しのギター弾きか三味線弾きのような気軽さを感じる。同時に、ロシアやヨーロッパの、音楽文化の生活への密着度を感じる。


ピアンティゴルスキーは、帝政ロシアが崩壊し共産主義国家に生まれ変わるときドイツに決死の覚悟で亡命した。そして、当時ベルリン・フィルの常任指揮者だったフルトベングラーに見初められ、ベルリン・フィルの第一チェロ奏者になった。

ベルリン・フィルでのフルトベングラーの指揮ぶりについての記述が面白い。
彼は弦楽器が弾けなかったので、私にしきりに弦楽器のコツを質問した。せめてコントラバスでも弾けたならもっといい指揮ができるのにと嘆いた。
彼がフォルテを振り下ろすまえには、エネルギッシュな足の一踏みと、頭の一振りが先行するのが常であった。それから一連の小さなギザギザの動きがあって(それは第一チェロ以下には決して見えないかったが)、それが彼の震える指揮棒をおろさせたのである。棒が目標に達したまさにその瞬間、オーケストラが入るのであったが、それは常に完璧な正確さであった。ピアノ(p)で出るときもほとんど同じであったが、ただ足踏みが省略され、ギザギザの動きもごく少なかった。