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片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

私のブログの似顔絵を書いてくださった方との関係

2011年12月04日 | スーパー秘書・優子物語
2,3日前から私の蕎麦打ちの写真を似顔絵に変えた。
リオプラスの林社長の知り合いで、似顔絵を書いてくれる人がいるというので林さんにお願いした。
数日して林さん経由で似顔絵が添付されたメールが転送されてきた。
差出人のお名前を見て思わず天を仰いだ。
なんとその方は、このブログを主催しているNTTレゾナントの常務取締役の方だった。
早速メールで似顔絵のお礼と、実はビジネスgooの中にあるグループウェアは、私が20数年前に作った「スーパー秘書・優子」が元になっていますとしたためた。
似顔絵はいただくは、驚いてはもらえるはで、とてもハッピーな気分になりました。
ほんとうにありがとうございました。

ちなみにgooのグループウェアはこれです。


グループウェアについて思う

2009年08月11日 | スーパー秘書・優子物語
グループウェア会社の社長に会った。
弱冠38歳。
会社の雰囲気がとてもいい。
空気がすぐにわかる。
行きかう社員の様子がのびのびとした雰囲気で、かつ思いやりが感じられる。
土砂降りの雨にずぶぬれになりながら訪れたのを見て、お茶を出してくれた女性も、いかにも気の毒そうに、「こんな雨の中ほんとうにすみません」という。
そして、娘と同い年の社長とひとしきりグループウェア談義。
私が、日本のグループウェアには日本人の心が入っている、それは「和」の心だというと、彼も「スケジュールは単に予定を書いているだけではなく、コミュニケーションを始めるためのきっかけだ」という。

グループウェアは、良い意味でもう一度一から作り直す時期に来ているのかもしれない。
そしてそれは、世界に誇れる日本の文化になる。

出会いの場を作ってくださったKさん、ありがとうございました。


スーパー秘書・優子物語、付録

2007年02月03日 | スーパー秘書・優子物語
昨日、日本コンタクトセンターフォーラムのセミナーがあり出席した。そこで、NTTコミュニケーションズでCTI/CRMを担当されているH課長に会った。私のアクシスソフトの名刺を見るなり「どこでもオフィスの、、、」と言われた。そうなのだ、「どこでもオフィス」というのは、現在gooが「BUSINESS goo」というSaasで提供しているグループウェアの旧バージョンの名前。それはアクシスソフトの「SuperVIP」をSaas化したもので、その元は「スーパー秘書・優子」。Hさんは「BUSINESS goo」のNTT側の技術担当としてアクシスソフトとやりとりされた方だとのこと。
私は思わず「それはそもそも私が作ったものです」と言ってしまった(本当に作ったのは私ではないが)。そして「優子は私の娘の名前で、今では2人の子供の母親です」などと。そして、このブログを見てくださいと、お願いした。いやいや、こんな出会いもあるものだ。

スーパー秘書・優子物語 第九話(最終回)

2006年06月09日 | スーパー秘書・優子物語

Gooの中に「ビジネスGoo」というASPで提供するグループウェアがある。これが実は「スーパー秘書・優子」の最終的な姿だ。よくここまで生きのびてきたものだ。


UNIXがビジネスに使えそうだという1980年代後半に産声を上げ、MS-DOSのCUI画面からスタートした「スーパー秘書・優子」。C/S時代にVBで格段に操作性がよくなり、HTMLでWeb化して、どこからでも、携帯電話からでもアクセスできるようになった。そしてASPサービスへ。


激動の20年を泳ぎきってきた「スーパー秘書・優子」。いろんな人が、いろんな形で関わってきた。走馬灯のように思い出す。


アクシスソフトの社内では「ハイパー秘書」という名前で全社員で使っている。これからどうなっていくのか?私の手は完全に離れた。Good luck!


この話を是非ブログに書くようにとすすめてくださった廣瀬さんに心から感謝します。


最後に、優子はもうお母さんです。子供が今4歳。もう自転車に乗れます。写真がそうです。


スーパー秘書・優子物語 第八話

2006年06月04日 | スーパー秘書・優子物語
Web化したスーパー秘書・優子。2002年にASPサービスを開始した。名称は「どこでもオフィス」。ドラえもんのどこでもドアにあやかった。
この頃ASPは花盛りで、マスコミが盛んに喧伝した。しかしどのASPも盛り上がらなかった。契約してくれる会社はあまりない。携帯電話でスケジュールが見えたり、名刺データが見えたりと。自分達が使っていて、こんな便利なものはないと思うのだが、一向に顧客が増えない。営業を担当する会社が悪いわけでもなさそうだし。

一方で、サイボウズは売れに売れている。内容的には絶対に勝っているという自信はあるし、そもそも元祖なのだからと思うのだがダメ。ASPが早すぎたのか、営業の仕方が下手なのか。結局3年ほどで撤退を余儀なくされた。

しかし、見ている人はいるものだ。なんと、GooのNTTレゾナントから声がかかった。

スーパー秘書・優子物語 第七話

2006年06月02日 | スーパー秘書・優子物語
スーパー秘書・優子は、名前が変わっていた。SuperVIPとなっていた。さらにキャラクターベースのMS-DOSのCUIの画面から、VB言語による、C/S(クライアント/サーバ)システムになっていた。田舎娘が洗練された都会娘になった感じだ。そして日産やHPなどに10セットほど売れていた。しかしC/Sではインストールやその後のメンテナンスが大変。
そこでHTMLでWeb化することとした。1999年のことだ。HTMLを利用したので、操作性やレスポンスを出すには苦労した。その時活躍したのが、元アスキーで、ワープロソフトの「筆王」をデザインしていた代田氏。彼の操作性にかけるこだわりは尋常ではない。多分こういう操作をするとこうなるだろう、ということが、そままま実現されているので、マニュアルなど不要。素晴らしいグループウェアに成長した。以来、現在に至るまで、アクシスソフト全員で利用している。

スーパー秘書・優子物語 第六話

2006年05月31日 | スーパー秘書・優子物語
1999年3月。私はアクシスソフトの社員になった。
シーエーシーを退社するとき、ちょうど50歳になり、好き放題やってきた人生を少し反省し、多少は人の役に立とうと一念発起し、人材派遣のパソナグループの会社に入社した。今アイティットという社名の会社だ。
当時アクシスソフトの社長だった大塚さんは、片貝が人材派遣会社なんか務まるはずはないと、私の転職激励会で、なんと、いつ辞めるかの賭けをしていた。私は真剣だし、人材派遣という仕事に夢を持っていた。転職してとても楽しかった。業績も伸びた。社員もユニークな人が多く(自分が一番か?)、派遣登録にこれらる人も個性豊かで、人間的なお付き合いも相当させていただいた。
転職して2年ほど経ったとき、大塚さんから声がかかり、時々アクシスソフトに遊びに行くようになった。
そこで、実は、Biz/Browserの発明者と出会ってしまった。私の心は揺さぶられ、そして天職と思っていた人材派遣の仕事をやめて、アクシスソフトの社員になった。そこに、昔ライセンスを供与していた「スーパー秘書・優子 for ORACLE」が待っていた。5年ぶりの再会だ。

スーパー秘書・優子物語 第五話

2006年05月28日 | スーパー秘書・優子物語

(株)片貝システム研究所は、1994年、世の中のバブルがはじけてからしばらくして、経営が行き詰った。そして、株式会社シー・エー・シーに、営業権譲渡という形で救済していただくこととなり、私も含めて大多数の社員が移籍した。この話はつらい思い出なのであまりしたくない。

しかし、シー・エー・シーの社長であった光山さんには、ほんとうにお世話になった。経営とは何はを学ばせていただいたし、深く人間としておつきあいさせていただいた。心から感謝している。実は私は36歳のとき、11年勤務したシー・エー・シーを飛び出した人間だ。それが47歳でまた舞い戻ることになった。どの顔を下げて戻ったらいいか途方に暮れたが、光山社長の温情で、社員もそれぞれ専門を生かして働けるようになり、私もオープンシステム事業部長ということになった。

時代はC/S全盛時代。VB、PowerBuilder、デルファイの時代だ。この時代、マンマシンインターフェイスが徹底的に追及された。開発も大変、メンテナンスも大変ということで、大変苦労するプロジェクトが多かった。70名くらいの事業部だったが、ついに利益を出すことはできなかった。特にひどい目に遭ったのがオラクル社がWindowsでもマッキントッシュでも使えるということで売り出したOPO(Oracle Power Objects)という言語。言語自体が挙動が不安定で仕様どおり動かないこともある未完成言語だった。結局Cで書き直す羽目になってしまい、疲れ果てた優秀な社員が数名退職する羽目にもなった。

ともあれ、Oliveは、そのような経緯でシー・エー・シーの製品となり、しばらく私の事業部で担当し、大企業に販売していった。スーパー秘書・優子のほうは、シー・エー・シー自体はユーザとして利用したが、製品としてはそこでストップした。

足を向けては寝られない恩義のあるシー・エー・シーだが、三年半経って、私は退社させていただいた。

 


スーパー秘書・優子物語 第四話

2006年05月24日 | スーパー秘書・優子物語
当時、山之内製薬へスーパー秘書・優子を売り込んでいた。
山之内では、社員が使うのではなく、役員秘書が使うシステムを求めていた。
つまり、一般社員が秘書がわりにつかうグループウェアではなく、秘書の本業、いわば秘書にとっての基幹業務での利用を考えていた。細かい話はしないが、それにはさすがに機能不足、というより視点が違う。
山之内では、費用は出すからWindows版で作ってくれとのことだった。
それからwindows2.0とか2.1とかとの戦いが始まった。言語はVBの初期バージョン。悪戦苦闘の末、完成。日本橋の本社に納品できたときは、さすがにほっとした。
このバージョンは、Oliveと名づけられ、株式会社
シーエーシーの製品として、現在はWeb版にもなっている。
超大手企業の秘書業務を支援するシステムとして圧倒的なシェアを占めていると思う。
当時の、VBのアプリケーションパッケージとしては、ほとんど最初だったのではないかと、これを書いていて思った。1991年か2年ころの話しではないだろうか。
そういえば、商品名を社内募集したとき、Oliveという名前で応募したSEを思い出した。身長はそれほどないが、まさにポパイのオリーブのようなさわやかな女性だ。今でもある会社のSEとして活躍している。

スーパー秘書・優子物語 第三話

2006年05月23日 | スーパー秘書・優子物語
1985年に設立された日本オラクル。informixでできている「スーパー秘書・優子」が欲しくて仕方が無い。当時の常務の熊坂さん、アクシスソフト初代社長の大塚さんに頼んで、私にコンタクトしてきた。オラクル版を作って欲しいというものだ。
しかし私は当時informixパートナー会の会長のようなことをしていて、その立場でオラクル版を作るわけにはいかないが、アクシスソフトで作るというのなら、まったく同じ仕様で作るライセンスをお渡ししましょうと言った。
そして「スーパー秘書・優子 for ORACLE」が誕生し、オラクル社内のグループウェアとしてしばらく使われた。
そうこうしているうちに、マイクロソフトが、なんとかマッキントッシュをキャッチアップしWindows2.0を出してきた。まあ、バグだらけでほとんど使い物にならず、しばらくはベータのままだったが、ある時、山之内製薬(現アステラス製薬)から声がかかった。以下次号

スーパー秘書・優子物語   第二話

2006年05月19日 | スーパー秘書・優子物語

スーパー秘書・優子の誕生


私が作ったのは、スケジュールを入れるDBのみ。informixはスキーマを切り、DBを生成すれば、一件ごとのデータ入力画面は、自動的にできる。しかしそれでは一覧性や時系列性がない。しばらくすると、誰かが縦軸に日にち、横軸に時間を取って、スケジュールを二次元で表現できるようにしてくれた。これは便利だ。


ところで、スケジュールはいいが、社内で会議をするときなど、会議室も一緒に予約したい、というニーズが出てきた。会議室予約で必要な要素は、誰が、何日、何時から、何時まで、誰と、どこの会議室で、何をする。つまり、スケジュールは人の予約、会議室予約は、場所の予約。機能的にはほとんど同じ。すぐ作れた。


こういった機能を全員が使うためには、ひとつだけルールが必要だ。それは、「スケジュールが入っていなかったら勝手にスケジュールを入れてよい」というルールだ。だから、手帳にだけスケジュール書いたのでは、他人からスケジュールを入れられてしまうので、できるだけ速やかにスケジュールを入力するようになる。罰則として、自分が入れなかったためにダブルブッキングになった場合の調整は、自分でしなければならない。便利だから使うのではない、スケジュールを入れないと、自分がひどい目に遭うから速やかに入れるようになる。すると、スケジュールは常に最新のものが入っているので、信用できる。するとそれに頼るようになる。そしてなくてはならない道具になる。


いろんな人が珍しがって見学に来たものだ。そのうち欲しがる人が出てきた。informix-4GLという言語で書いてあり、名刺、ニュース、購入図書、伝言メモ、ToDo機能などを付けて、「スーパー秘書・優子」と命名して、ソースプログラムで80万円で販売した。80本くらい売れた。ソースが手に入るので、カスタマイズができ、ユーザに喜ばれた。


落ちがひとつ。ニュース、購入図書、ToDoは使い切れなかった。運用体制がしっかりしていないと無理。


スーパー秘書・優子物語   第一話

2006年05月18日 | スーパー秘書・優子物語

日本初のグループウェアの誕生

1980年代後半のある日。「片貝さん、社外のいろんな方から電話がかかってくるのですが、片貝さんの予定が分からないので返事のしようがなくて、相手に申し訳けないのです。なんとかなりませんか?」と、ある社員から提案があった。

当時、社内に10Base5の、ぶっといイエローケーブルが張り巡らされ、サーバはSONYのNEWS、そこにinformixが搭載されていた。また、社員全員一人一台PC9800のMS-DOSパソコンがあり、LANに接続されていた。当時としては最先端のオフィス環境だ。社内システムとしては、informixで作った販売管理があり、全員で利用していた。その他はUNIXのメールのみ。

ふと思った。手帳を見た。愛用の能率手帳だ。スケジュールって、誰が、いつ、何時から、何時まで、誰と、どこで、何をするという7項目から成り立っていることを発見した。私が、5月18日の朝10時から11時まで、A君と、X会社に行き、Yさんと商談する、ということだ。

そこでやおらinformixを立ち上げて、スキーマを切った。そしてそこに自分のスケジュールを入れた。そして全社員に、「僕のスケジュールはこのDBに入っているから、外から電話があったらここを見て答えてね」と言った。日本初(多分)のグループウェア誕生の瞬間だ。