片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

徹底的にユーザをフォローし続けて来ました。

2015年11月28日 | Biz/Browser
地道に地道に一歩いっぽ



先日オープンストリームの顧客対応があまりにも素晴らしく感動しているとお客様が第三者に話したらしいです。
回り回ってその話が私にも聞こえて来ました。
ユーザ事例にもある日本を代表する製造業です。
全社一丸となって全力で顧客対応をする姿勢は実に清々しいものです。
日本のIT企業がみんなオープンストリームのようになればいいのにと、業界50年の私は心から思います。

男は頭で考え女は子宮で考えると言う

2015年11月13日 | 22世紀を目指して
私は、フクシマの後しばらくは、地震にも津波にも破壊されない原子炉を作らねば、と思っていた。大半の男はそう考えたのではないだろうか。
しかしドイツのメルケル首相を始め、大半の女性は違った。まず身の毛がよだつほど恐ろしいと思った。
女性は子供を産み育てる、守りながら生を繋ごうとする。男性は攻めながら生を繋ごうとする。
今や科学技術は異様に発達し、簡単に世界を何度でも破滅させることができるようになってしまった。
国のリーダーは、これからは女性がいいと考える今日この頃。

ユーザの行動を動きレベル(立つ・座る・歩く・走るなど)で認識することができるプラットフォーム

2015年11月12日 | おもしろソフト
ユーザの行動を動きレベル(立つ・座る・歩く・走るなど)で認識することができるデータ収集プラットフォームの提供をオープンストリーム社が開始しました。

これはユニークですね。

AI機能と組み合わせてリアルタイムなダイナミックマーケティングができるかもしれません。



昨日のカンブリア宮殿でやっていた「大里総合管理」に大感動

2015年11月06日 | 感動したこと
テレビを見ていてこれほど感動したことがあっただろうか。

11月5日のカンブリア宮殿の大里総合管理の野老(ところ)社長。

母親の跡をついで40歳で社長になった。
母親に言われて、耕作できなくなった土地を年15000円で草刈や土地の見回りなどして管理する仕事をベースに、不動産業や建築業を手掛ける。
あるとき、切り倒した木をトラックにロープを付けて引っ張っていたところ、通りがかったバイクの高校生がロープに気付かず転倒し死んでしまった。
自分は何をやっているのだろう、なぜ見張りを付けなかったのだろう、経営ばかりに気を取られて大事なことを見失っているのではないかと深く考え込んだ。

それから始めたのが掃除。
トイレ掃除から周辺の掃除まで。
すると気付くことが山ほど出てきたという。

気付いてやらないのは気付かなかったことと同じ、気付いたらすぐやるということに心がけた。
それが仕事であろうとそうでなかろうと。

人は「ありがとう」と言ってもらうために働いている。
新入社員が仕事でありがとうと言ってもらうには何年もかかる。しかしボランティアで駅の草むしりなどすれば入社したその日からありがとうと言ってもらえる。その体験を大事にしてあげたい。それが仕事に必ず結びつく。

ボランティアを嫌がる社員には、ボランティアが好きになるまでやってもらう。それが私の使命。そうすることでその人の生き方が変わる。

ベトナムから近所に農業研修生が来ていた。見るとゴミが分別せずに出してある。野老は根気よく分別を指導した。できるようになったら褒めてあげた。そして研修所の掃除を徹底してやるように指導した。研修生は楽しいと言うまでになった。それから彼らを会社のレストランに招いて、社員や地域の人と交流させた、地域の人の理解も深まった。やがて彼らは日本各地に散っていく。大切な宝物を手に入れて。

3.11の被災地にも行った。耳かきが欲しいと言うおばあさんに100本の耳かきを渡した。おばあさんは残りの99本を耳かきを必要とする人を探して差し上げる側に回った。被災者が支援者に代わる瞬間だ。みんな自分にできることをやろう。

保育所に通っている子を持つ社員の母親が、熱の出た子供を連れて出勤する。大切な社員には働ける環境を用意しなければ働いてもらえなくなってしまう。会社に子供を連れてくるのは当然だ。

学童保育もやっている、上級生は下級生の面倒をみる。学校が終わるとただいま!と大里総合管理に子供たちが戻ってくる。

ボランティアでやっていることを数えると、280を超える。まだまだ増えそうだ。

地域から熱愛されている大里総合管理。






企業情報システム50年 プログラムありきからデータありきへ

2015年11月05日 | 企業情報システムの50年
初期の企業情報システムのデータは磁気テープだった。
つまりシーケンシャルファイル。
社員番号順に並べた給与マスターと毎月の残業や勤怠の入った、これも社員番号順に並んだトランザクションファイルを順に読みながら突合し、当月の給与明細ファイルを作り出す。
そこから給与明細や金種表などを印刷する。その後年末調整用の給与累積ファイルを読みながら今月分を追加した給与累積ファイルを作り出す。
こんな方法だった。
つまり、プログラムがデータファイルをコントロールしていた。

それがランダムアクセスファイルの登場と、データベース理論の発達のおかげで、データはデータ、プログラムはプログラムと分かれることになった。

考えてみると、企業の業態が決まれば必要とするデータはほとんど共通に定義できる。銀行、保険、証券、自治体などは特にそうだ。大事なのはデータ、その定義をきちんとし、正しく保つことで、正しい処理ができる。

企業情報システムの最初の頃は、それぞれの企業が社員の力で情報システムをすべて作っていたので整然とデータマネジメントができた。しかし、情報システム部門が地盤沈下を始めると、それが徐々に崩れてきた。1990年頃からだろうか。別々に作られた同じマスターが会社のなかにいくつもあったり、コードの整合性が取れなくなったり、いろんなことが始まった。もちろん今でもきちんとデータマネジメントができている会社はある。そういったところは経営者が情報システムの価値をよくわかっているか、情報システム部門がきちんと経営とリンクしている会社だ。

一番大事なのはデータ。
今こんな団体がある。
リアライズの大西さんが旗を振って立ち上げた団体だ。


Biz/Browserとスマホの「アプリ」は同じ技術

2015年11月01日 | サテライトオフィス
今のBiz/Browserの原型が生まれたのが2000年。
スマホのアプリが生まれたのは2010年くらいだろうか。
Biz/Browserは10年発想が先行していたことになる。

スマホのアプリは端末側にプログラムがダウンロードされて動く。
なので、端末の機能を十分使えるし、サーバと通信しなくてもそれ自体でコンピュータとして機能する。
つまりどのようなアプリでも作れるから、常にサーバとやり取りしなければならないWebアプリとは見違えるような操作性のソフトが作れる。

Biz/Browserはこれを2000年に実現していた。
そして最初に採用してくれたの日本を代表する保険会社である東京海上火災保険だった。
代理店が収納した保険料をきちんと記帳しなければならない収支明細の画面にBiz/Browserを採用したのだ。
それが2001年だった。

Biz/Browserは、マイクロソフトのOSやブラウザの発展と共に進化していった。
WindowsCEが出ればそれに対応した。
タブレットが出ればそれに対応した。
マイクロソフトのOSを使っている限り、Web環境でミッションクリティカルな業務システムをWebで構築しても、それまでのC/S時代とそん色ないシステムが作れたので、Biz/Browserを評価できる技術力のあるユーザに浸透して行った。

その後iOS、Androidが出てきたのでBiz/Browserはそれにも対応した。
その結果今ではOSフリーのミドルウェアとしての新しい価値が出てきた。
Biz/Browserを使えば、一つのアプリがどのOSでも動くのだ。
しかもOSがバージョンアップしてもアプリを変更する必要もなくなった。

こんな時代が来るとは思ってもみなかった。
Biz/Browserが本格的に使われるようになって15年、今でも現役で更に輝きを増しているのは、本質を突いているからだ。ユーザインターフェイス専門のクライアントミドルウェアとしてのみの位置づけが長生きのコツだった。これは扇の要のように、扇のデザインが様々に工夫されても要は地味な金具で構わないといった感じに似ている。

これからじっくりと世界を見据えて出ていくことを期待したい。

企業情報システム50年 日本で最初の独立系ソフトウェアハウスの誕生が

2015年11月01日 | 企業情報システムの50年
1966年、現存する会社では日本で最初のソフトウェア制作の専門会社が誕生した。
その名は株式会社コンピュータアプリケーションズ(現CAC)。

それまでコンピュータメーカの資本の入ったソフトウェア会社はあったが、メーカから独立の、ユーザ指向の会社は無かった。
設立の志は、ユーザの為のソフト開発に徹すること。メーカからは一切仕事はもらわない。ユーザから直接仕事を受ける、だった。

私が電機メーカの情報システム部門からこの会社に途中入社したのが1970年、創立から4年目だった。
私はNECのコンピュータで育ったが、当時のCACのユーザは、みなIBMユーザだった。
なぜかというと、コンピュータの価値はほとんどハードウェアの価値で、ソフト開発はハードを売るための添え物として扱われていたため、国産メーカはSEをハードに付けて無償で1,2年提供するようなことをしていたのである。

IBMだけがソフトウェアのアンバンドリングを打ち出し、ソフトウエアには価値があると主張し、ソフト開発に高額な見積もりを出していた。
そのため必然的にCACの顧客はIBMユーザという流れになった。

私が直接担当した顧客は、東京ガス、住友信託、三井銀行(当時)、日本興業銀行(当時)、旭硝子、丸井、安田火災(当時)。
このような名だたる会社の仕事を直接受けてやっていた。

CAC設立以来、後続の独立系ソフトウェアハウスが次々と誕生した。

当時はコンピュータメーカごとにOSも言語もDBもあり、システム開発にはそのメーカの技術さえ知っていれば何の問題もなかったので、技術を一通り習得したSEは、対象業務の理解と設計にほとんどの時間を費やすことができた。ある意味、今から思えば何とも素晴らしい時代だったことか。

それが崩れたのが1979年NECの歴史に残るパソコンPC-8001が出てからだ。
エンドユーザコンピューティングが始まってしまったのだ。
情報システム部門から見るとユーザの反乱とも見えた。
それからホストコンピュータ全盛時代は終わりを告げ、戦国時代に入り、オープンシステムからインターネットの時代を迎え、これからはクラウドコンピューティング。

それに連れて、ソフトウェア会社も様々に多様化していった。
実に面白い!!!

思えば来年はCAC創立50周年。
ソフトウェアの時代の半世紀が過ぎた。