片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

企業情報システム50年 プログラムありきからデータありきへ

2015年11月05日 | 企業情報システムの50年
初期の企業情報システムのデータは磁気テープだった。
つまりシーケンシャルファイル。
社員番号順に並べた給与マスターと毎月の残業や勤怠の入った、これも社員番号順に並んだトランザクションファイルを順に読みながら突合し、当月の給与明細ファイルを作り出す。
そこから給与明細や金種表などを印刷する。その後年末調整用の給与累積ファイルを読みながら今月分を追加した給与累積ファイルを作り出す。
こんな方法だった。
つまり、プログラムがデータファイルをコントロールしていた。

それがランダムアクセスファイルの登場と、データベース理論の発達のおかげで、データはデータ、プログラムはプログラムと分かれることになった。

考えてみると、企業の業態が決まれば必要とするデータはほとんど共通に定義できる。銀行、保険、証券、自治体などは特にそうだ。大事なのはデータ、その定義をきちんとし、正しく保つことで、正しい処理ができる。

企業情報システムの最初の頃は、それぞれの企業が社員の力で情報システムをすべて作っていたので整然とデータマネジメントができた。しかし、情報システム部門が地盤沈下を始めると、それが徐々に崩れてきた。1990年頃からだろうか。別々に作られた同じマスターが会社のなかにいくつもあったり、コードの整合性が取れなくなったり、いろんなことが始まった。もちろん今でもきちんとデータマネジメントができている会社はある。そういったところは経営者が情報システムの価値をよくわかっているか、情報システム部門がきちんと経営とリンクしている会社だ。

一番大事なのはデータ。
今こんな団体がある。
リアライズの大西さんが旗を振って立ち上げた団体だ。


企業情報システム50年 日本で最初の独立系ソフトウェアハウスの誕生が

2015年11月01日 | 企業情報システムの50年
1966年、現存する会社では日本で最初のソフトウェア制作の専門会社が誕生した。
その名は株式会社コンピュータアプリケーションズ(現CAC)。

それまでコンピュータメーカの資本の入ったソフトウェア会社はあったが、メーカから独立の、ユーザ指向の会社は無かった。
設立の志は、ユーザの為のソフト開発に徹すること。メーカからは一切仕事はもらわない。ユーザから直接仕事を受ける、だった。

私が電機メーカの情報システム部門からこの会社に途中入社したのが1970年、創立から4年目だった。
私はNECのコンピュータで育ったが、当時のCACのユーザは、みなIBMユーザだった。
なぜかというと、コンピュータの価値はほとんどハードウェアの価値で、ソフト開発はハードを売るための添え物として扱われていたため、国産メーカはSEをハードに付けて無償で1,2年提供するようなことをしていたのである。

IBMだけがソフトウェアのアンバンドリングを打ち出し、ソフトウエアには価値があると主張し、ソフト開発に高額な見積もりを出していた。
そのため必然的にCACの顧客はIBMユーザという流れになった。

私が直接担当した顧客は、東京ガス、住友信託、三井銀行(当時)、日本興業銀行(当時)、旭硝子、丸井、安田火災(当時)。
このような名だたる会社の仕事を直接受けてやっていた。

CAC設立以来、後続の独立系ソフトウェアハウスが次々と誕生した。

当時はコンピュータメーカごとにOSも言語もDBもあり、システム開発にはそのメーカの技術さえ知っていれば何の問題もなかったので、技術を一通り習得したSEは、対象業務の理解と設計にほとんどの時間を費やすことができた。ある意味、今から思えば何とも素晴らしい時代だったことか。

それが崩れたのが1979年NECの歴史に残るパソコンPC-8001が出てからだ。
エンドユーザコンピューティングが始まってしまったのだ。
情報システム部門から見るとユーザの反乱とも見えた。
それからホストコンピュータ全盛時代は終わりを告げ、戦国時代に入り、オープンシステムからインターネットの時代を迎え、これからはクラウドコンピューティング。

それに連れて、ソフトウェア会社も様々に多様化していった。
実に面白い!!!

思えば来年はCAC創立50周年。
ソフトウェアの時代の半世紀が過ぎた。





企業情報システム50年 はじめにコンピューターありきで考えなおす時代となった

2015年10月01日 | 企業情報システムの50年
企業のコンピューター活用は、昔からやってきた業務をシステム化することだった。
しかしコンピューターの能力を最大限に引き出すには、コンピューターがあるからこのビジネスが成り立つといった、コンピューターにすべての仕事をさせるような発想が必要だった。
それができるようになったのがインターネットが一般に普及した2000年頃から。
それが一番やりやすいな産業は、物を扱わない産業だ。お金か情報しか扱わない産業。

例えば証券業界。
少し古い情報だが、カブドットコム証券の社員一人あたりの利益は1億円だという。
社員全員がITのプロ。

保険会社もネットだけでやれば、ごく少ない人数で莫大な利益をあげることができる。

インターネット時代に入って、既存産業はよくよく考える必要がある。
自分の会社の強みを直接ユーザに届ける方法はないかと。





企業情報システム50年 情報システム部門の盛衰

2015年09月24日 | 企業情報システムの50年
1960年代から80年くらいまでの日本企業の情報システム部門はほんとうに元気だった。
もともと事業の現場にいた若手を抜擢してシステム部門を作ったから、出身事業部とも常に密に連携しながら全社のことも考えつつ仕事をする人たちばかりだった。
確かに当時はコンピューターメーカーごとに囲い込まれてはいたが、それによって専門的なことはコンピューターメーカーのエンジニアに任せておけばよく、自分たちは業務をどうシステムに乗せるかに専念できた。
ほとんどの企業が自社の情報システムに自信を持っていた時代だった。

それが1980年代に入ってパソコンが出てきてからおかしくなった。
ホストコンピューターではなかなか部門独自のシステムや個人がやっている仕事を救うまでには至らなかったため、現場はパソコンに飛びついた。
いわゆるEUCだ。それがどんどん発展して部門サーバーとつながるようになり、情報システム部の知らないところで結構なシステムが構築されるまでになった。
そうなると、情報システム部門は何をやっているのかという声も聞こえるようになってきた。
そしてショックだったのは米国でコダックが情報システム部門をIBMに売却したことだった。
これを機に日本のコンピューターメーカーや大手SIerが企業の情報システム部門の買収にかかってきた。
私に言わせればこんな愚は無い。情報システム部門は単に事務処理を機械化する時代は終わって、これから戦略部門になるのに、売却してどうすると天を仰ぐ気持ちだった。

今また情報システム部門が戦略部門として注目され始めているが、売却してしまった会社はあとの祭りだ。

情報システム部門を手放してはいけないし情報システム部門には最も優秀な社員を配置すべきだ。クラウドを利用することで技術的なことは業者に任せて、昔のように経営と一体となった情報システム部門になっていかねばならないと私は思っている。


企業情報システム50年 データは必ずしも正確でなくてよい?

2015年09月17日 | 企業情報システムの50年
勘定系業務では考えられないことだが、グループウェアでは許される。

たとえばスケジュール。
面会の相手の名前まで書きたくない場合、社名と時刻、簡単な用件のみ書いて入力してしまう。
詳細が必要なら自分の手帳に書いておく。

たとえば名刺管理
いただいた名刺を登録したが、それから何年も経って昇進しているか部署が変わっているかもしれない。3年もすれば何かが変わっている可能性は高い。
でも親しければ親しいほど、その後名刺交換しないからわからない。
ところが、登録した名刺を全社や部門で共有すると、だれかがその名刺が古いことに気付くチャンスに恵まれる。
つまり、更新しにくい情報は人目にさらすことで正確になってくるという性質を持っている。

あれば便利系のシステムでは、適当に使い始めることが大事だが、やるなら徹底してやらないと効果が出ない。
スケジュール管理に参加していない人がいると、空き時間管理ができない。空いている時間を自動的に見つけて複数人の予定を一緒に自動的に取るということはシステム的には可能だが、前提として各人が予定をもれなく入れているということが前提になるからだ。

かくして、企業情報システムには、絶対に正しくなければならない勘定系データと、オフィスワークを支援するような多少あいまいさを含んだデータの療法が混在することとなった。こんなことも長年企業情報システムにかかわっていると感じることだ。



企業情報システム50年 データ入力今昔

2015年09月14日 | 企業情報システムの50年
今は、入力中のデータでも過去に入力したデータでも、見ようと思えばいつでも端末から見える。
多くの人の目で見ていると間違いに気付く人がいて訂正の機会に恵まれる。
コンピューターの黎明期はそうではなかった。一度取り込まれたデータをそのままの形で人が見ることはまずなかった。もし間違いデータが取り込まれてしまったら発見することはほとんど不可能だった。そのために最初にデータを投入するときの慎重さには異常なまでの注意を払った。

社員番号などには末尾に必ずチェックディジットを付けた。コードを読み違えて書いてもチェックディジットとの照合ではじくためだ。伝票をキーパンチに回してカードにパンチしたときキーパンチャーがパンチミスを犯すこともある。だから必ずベリファイと言って別な人がもう一度伝票を打って照合した。水際作戦だ。

入力データを入力しながら人事マスターから氏名を持ってきて画面で目視できるようになって、これまでの苦労は不要になった。逆にいつでも見えるから、入力時の慎重なチェックシステムをあまり考えなくなった。

企業情報システムはデータが命。100%正確でなければならない。これをどう担保するかは今も昔も同じはずだが、国家プロジェクトなどではメルトダウンも見られる。ゆゆしき問題。

企業情報システム50年 製造業と金融業の違い

2015年09月14日 | 企業情報システムの50年
それまで勤務していた製造業からソフトウェア開発会社に転職したころの話。

最初に与えられた仕事が銀行の夜間バッチシステムの再構築。
日中に起こったすべての取引データを元にマスターを更新する仕事だ。
結局ありとあらゆる取引について知ることとなった。

とにかく驚いたのは製造業とは全く発想が異なっていること。
製造業は、すべて理詰めで、縦に一本筋が通っている。とにかくこれが本筋で、例外をどうするを突き詰める必要があった。
しかし金融業では、いわば何でもありで、さまざまな取引が考えられる、新しい取引形態も発明される。複雑怪奇魑魅魍魎だと最初思った。

理系文系という言葉が日本にはあるが、製造業は理系頭で考えた仕組み。金融業は文系頭で考えた仕組みだと思った。モノを扱う仕事と情報を扱う仕事の違いということもある。もったいないなと思ったのは、どちらにも素晴らしい発想がある。垂直思考で考える人と水平思考で考える人の組み合わせで企業を考えたら面白い会社ができるだろうなと思った。

昔は仕事があって、そのデータをコンピューターで処理した。昨今のベンチャー企業には、コンピューターやネットワークがあって初めて存在しうる種類の会社が増えてきた。理系的発想と文系的発想の融合が、こういう会社では生きてくるだろうなと思う今日この頃。

企業情報システム50年 VisiCalcを見たときの衝撃

2015年09月10日 | 企業情報システムの50年
企業情報システムというものは、システムを作る人と使う人が違うものだという認識しかなかった。
私作る人、あなた使う人だ。

ところが、1979年にアメリカでVisiCalcが出た!

私は、これを見たときに、自分はこれまで何をしてきたのだろうと思うほど衝撃を受けた。
自分の仕事のために自分で仕組みを組み込み(プログラムを作る)自分でコンピュータを自由に使うということができた。

VisiCalcはAppleⅡ用に作られたが別にこれはホストコンピュータでも作れる仕組みだ。
世界中に企業情報システムにかかわる人間が何百万人いたか知らないが、ホストコンピュータでVisiCalcのようなものを作ったという話を聞いたことはなかったし自分でも考えもしなかった。これはショックだった。

VisiCalc以来パソコンが爆発的に売れるようになり、エンドユーザコンピューティングの時代が津波のように押し寄せることになる。
そもそもエンドユーザという言い方がおかしい。ユーザコンピューティングだ。

ちなみにCalcの歴史を簡単に紹介すると、次がSuperCalc

次がMultiplan

そしてLOTUS1-2-3

最後にEXCELが登場した。

この間わずか6年。表計算ソフトの戦国時代だった。

私が最初にEXCELを使ったのは1985年、初代マッキントッシュだった。バグだらけでとても使い物にならなかったが、その美しさには目を見張らされた。

ともあれ、表計算ソフトはEXCELで世界が平定され、シートをメールでやりとりもできる時代になった。企業情報システムとも有機的連携もできるようになり、今日に至っている。













企業情報システム50年 見果てぬ夢ーソフトウェアの自動生成

2015年09月09日 | 企業情報システムの50年
要件定義ができたら、それを読んでソフトウェアは自動生成してくれる。
このことは情報処理業界の昔からの夢だった。
しかしいまだに完全には実現していない。
このことを長年考えていたが、今のところ結論はこうだ。

こういう場合にはこうする、ああいう場合にはああすると一義的に決められるものは何かと言うと、WHATの部分だ。HOWになると蜂の巣をつついたようになる。従来のシステム開発はWHATとHOWをごちゃまぜに開発してきた。特にWebシステムでは。

HOWとはUIの部分だ。どのような手順で処理するかという操作性の部分だ。この部分を完全に切り離して作ることができれば、WHATとHOWを切り離して開発することができる。そしてWHATは業務マニュアルとして定義できるから、自動生成もできる。HOWの部分は相手や端末の特性に合わせてそれぞれ作ればいい。

このような発想で開発されたのがBiz/Browserという製品だ。Biz/Browserはサーバとは粗結合なので、いかようにも画面はいじくれる。サーバとのデータのやりとりの構造さえ変わらなければ、クライアント側のプルグラムをを変更してもサーバ側のテストは必要ない。

考えてみると、IBM3270エミュレータの時代に、端末側の画面を別に作ってIホストコンピュータとやりとりするという方式があった。その考え方をWeb環境に取り入れたようなものだ。
さいs
3270時代をご存じの方はこちらをご覧ください。

話は変わるが、業務システムのユーザにとって一番UIがすぐれていたのはいつかというと、1990年から95年あたりに作られたVBを使ったシステムではないかと思う。この時代、それまでの文字だけの世界からマウスが使えGUIが使えるようになり、とにかく操作性を良くしようと、作る側も採算度外視で熱に浮かされたように工夫に工夫を重ねたものだ。

それが結果としてソフトウェアの管理の困難さにつながりTCOの削減が叫ばれ、Webシステムがいいのではないかということになり、基幹業務のWeb化が始まったが、そもそもHTMLで基幹業務が書けるわけもなく、レスポンスや操作性が犠牲にされた。情報システム部門のTCO削減がメインテーマになってしまった。

いろんなことがあって、また基幹業務のWeb化は落ち着いていない気がする。



企業情報システム50年 データ処理からグループウェアへ

2015年09月07日 | 企業情報システムの50年
1990年代に入って、一人一台のパソコン端末が当たり前になってくると、コンピューターの使い方が変わってきた。
それまでデータ処理にしか使わなかったコンピューターを、電子メールで使ったり、グループウェアで使ったりするようになってきた。
こういったことは、勘定系の情報システムを担当してきた人々にはコペルニクス的発想の転換に思えたはずだ。

つまり電子メールやグループウェアというのは、日々の仕事そのものなのだ。
ああでもない、こうでもないと社内や外部の人とやりとりしながら仕事は進んで行くが、その過程そのものを支援するのが電子メールでありグループウェアだった。

そのうち、勘定系から出るアラートを電子メールに乗せて担当者に連絡し、返事をメールでもらって勘定系のデータに反映するなどということも始まってきた。
1980年代は、パソコンは個人の仕事を楽にしてくれる高級電卓のような位置づけだったが、90年代に入ってパソコンが社内LANにつながるようになって、ようやく組織としてコンピューターを使えるようになってきた。

企業情報システム50年 最初は仕事の結果を処理するだけだった

2015年09月04日 | 企業情報システムの50年
初期の企業情報システムは、さまざまな仕事の結果を処理するだけだった。
つまり、受注が確定した時に書く受注伝票、売上が確定した時に書く売上伝票、仕入れ伝票、勤怠伝票などなどを入力源として、計算・集計・レポートをするのが企業情報システムだった。それでも、膨大な伝票をソロバンや電卓で集計することから見れば目を見張る効果を上げた。高価なコンピューターを導入する価値はあった。
しかし、そういった仕事は、本来第一線で仕事をしている人の仕事ではなく、アシスタントか事務管理部などの仕事だった。会社の動輪としての仕事をしている人個人にとっては、別に仕事が楽になる部分はほとんどなかった。むしろ事務処理の都合上自分の仕事の自由度が狭められるきらいすらあった。

そんなことで悶々としている現場で活躍している社員が飛びついたのが1980年代から爆発的に普及が始まったパソコンであり、今ではEXCELに統一されてしまったが、表計算ソフトと言われるジャンルのソフトだった。これを使うと、集計のみならず、いろいろと計画を立てることができた。

パソコンが出てから、現場から見ると、結果しか処理しないホストコンピューターによる企業情報システムは頑固おやじのように見えた。

1980年代は渾沌の時代とも言える時代だった。それまで花形だった情報システム部門の地盤がじわじわと沈下して行く時代だった。

企業情報システム50年 どこかで道を踏み外して今に至る

2015年08月31日 | 企業情報システムの50年
コンピューター黎明期は、会社の中でも優秀で、人当たりも良く仕事が一番わかっている人を抜擢して情報処理部門を新規に創設し、コンピューターを前提とした業務改善に取り組み、会社の組織も見直し、職務分掌規程も直して、それから情報システムの設計に取り掛かるのが普通だった。
それが今はどうだ。情報システム部門は職務を放棄し、経営者は餅は餅屋などとわけのわからないことを言って、仕事のことなどほとんど知らないベンダーに会社の業務そのものの設計をお任せしてしまう。しかも短期でやれという。すべてが無理!

日本のIT化はどこでどうボタンを掛け違えたのだろうか。


企業情報システム50年 今入力したデータを見られるのは三日後だった

2015年08月29日 | 企業情報システムの50年
新規顧客を登録する、売上データを入力する。
こういった業務は、今では、画面に向かって打ち込めばすぐに目視確認できる。必要があれば印刷もできる。
しかし黎明期は違った。
顧客登録伝票、売上伝票を起票後キーパンチに回す。
パンチカードに出来上がってくるまで、1日二日。
それをスケジューリングされたコンピューターの利用時間に合わせてカードリーダーから読み込ませ、コンピューター内部に蓄積させる。
各種マスターと突合して不整合が見つかるとエラーとしてはじかれ、エラーリストとして印刷される。
それを見て訂正伝票を起票し再度キーパンチに回し、処理する。
こんなサイクルでやっていたから、事象が発生してからコンピューター処理が終わるまでには3日はかかった。

伝票を見ながら、伝票の起票者が自ら入力するのはいいことだ、しかも入れながらエラーは警告されるのでその場で直せる。
50年前から20年ほど続いたバッチ処理の時代、その後のオンライン処理、一人一台の端末処理の時代。


企業情報システム50年 たかが番号、されど番号、それも時代と共に

2015年08月26日 | 企業情報システムの50年
工場で製品を作る時製造番号を付ける。
目的は、その番号ですべての経費を集めて原価計算をしたり、工程の進捗管理をしたり、売上を計上したり、支払いを計上したりするためだ。
ではどんな風に付けるか?
何もかも作る順番に1から連番を振る方法もあるが、それでは番号だけ見たのではまったく製品のイメージが湧かない。
特に一人一台のパソコン端末があるならコードを叩けば詳細が出てくるが、昔はそうはいかなかった。
そこでさまざまに工夫した。
たとえば、頭二桁は西暦で製造年の下2ケタ、次の2ケタを英文字で製品の大分類、次の3ケタで中分類、あとは連番というふうに。
会社の事業を俯瞰して、どのような事業をやってきて、これからどんなことをしようとしているのか、そこまで考えないとコード体系を決めるのは至難の業だった。だいたい5年も経つとどこかの桁がパンクしたり、もっと細かく分類が必要になったりする。先見の明が問われたものだ。

しかし今では端末があるから、コードで意味を知る必要もない、ただの連番で構わなくなった。もっと言えば、コードはあるが、それはできるだけコンピューターの内部だけのことにしておいて、できるだけ人の目に触れないように済ますことも考えられてきている。

みなさんの会社の社員番号はどういう考えで付けられいるだろうか。入社順の番号であっても会社が合併したらどうするか。一度退職して復職したらどうするか。社員番号ですら意味を持たせようとすると結構大変だ。

企業情報システム50年 会計システムはどう作る?

2015年08月21日 | 企業情報システムの50年
その昔、企業の経理部は仕訳伝票から仕訳帳や元帳に手書きしていた。
一回記入したらもう消せない。
どうしても消すためには反対仕訳を起こす必要があった。
そんなガチガチの仕組みのところにコンピューターが入った。

さてどうやってシステムを作るか。
コンピューター的にやるなら期首残高と今期の仕訳伝票があればたちどころに財務諸表はいつでも計算で作り上げることができる。
しかしそれでは税務署は納得しないだろう。遡って仕訳を入れることも可能だからだ。不正と言うわけではないが。
ということで初期の会計システムは一度仕訳を入力したら削除できないような仕組みが多かったと思う。

しかしパソコンの時代になって、出てき市販の会計ソフトを見てビックリ仰天した。
伝票は勝手に出し入れできる。削除も訂正もOK!
要は証憑と仕訳が合っていればいいんでしょというわけだ。
過程など問題にしていない。
年に一度の税務申告の時にキチンを紙に打ち出して報告できればいいんでしょ、というスタイル。

これには恐れ入ったが、目からウロコだった。

最近では仕分け伝票など起票せず領収書から直接入れることを想定しているケースも多いし、細かい伝票が経理まで来ないように、部門で入力承認して証憑は部門保管も多いと聞く。