片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

明治の男が、息子を養子に出すにあたって書いて渡した17箇条

2015年05月31日 | 子供時代の思い出
木檜三四郎は私の曽祖父の弟。
群馬県岩島村の片貝家から隣町の原町の木檜(こぐれ)家に養子に行った方だ。
その方が、息子九郎を、大阪の商家長谷川家に婿養子として送り出すに当たり、夜したためた戒めのことば。
明治の男の、息子への愛情が深く静かに伝わってくる。
(〇は判読不能)




一、 孝は百行の基たるを忘るな
二、 世に〇しては謙譲なるべし
三、 人中に〇て先き走って語らぬこと
四、 何事に就きても知ったか降りをせぬ事
五、 長谷川家の家法に従ひ違背あるまじき事
六、 新たに仕事を起こしまたは従来の仕きたりを改めんとする時は先ず養父母及先輩の意見をただし同意のある時執行する事同意なき場合一切取り止めになすべき事
七、 如何なる間柄なりとも人様のものを無断取り出し又は人に与えぬ事
八、 他人に厚くし己に薄くする事
九、 倹素身を持する事
十、 酒は乱行の因なり一滴たりとも口にするな
十一、 腹の立つ事起こりたる時は先ず唾を呑み込み一考すべし
十二、 家業に従事する方に対しては如何なる場合たりとも温情を以って接遇すること
十三、 与えられたる職務に就いては専心努力以って範と示すの心掛けあるべし
十四、 独断専行は九郎の欠点なり何事も協議の上に致すべき事
十五、 食事の際我儘を云うな与えられたるものを気持ちよく頂くべし
十六、 人の世に処する当たっては第一健康第二知識第三資本である而して能く之を統制調和しなければ真の効果は挙げられぬ夫れには徳の力が大切である然るに九郎には斯徳が無い特に修養なすべし
十七、 行住座臥寸時も修養を忘れぬ様心がくべし

昭和14年10月26日夜志るす。
木檜三四郎

日本一の品質を誇る岩島麻の実態調査に行ってきた

2015年05月11日 | 子供時代の思い出
岩島麻が、背丈も高く素性が良く、一本の麻の茎から非常に繊細な長い繊維が取れることから、ずば抜けて日本一の品質であることがわかって、とても心強い思いがしました。そして加工技術が素晴らしく、麻挽きという最終工程には職人技の手仕事が必要なことも特産品とするための条件として素晴らしいと思いました。
しかし戦後GHQによる大麻認定から時間が止まってしまい、単なる技術伝承に留まった認可しか下りていないことはなんとも残念なことです。これでは岩島麻の戦後は終わりません。
何百年も栽培され、2反歩もあれば一家5人が一年間食べて行けるだけの高値で売れたといわれる岩島麻。麻で麻薬中毒になったなどということは聞いたこともない岩島麻。私は岩島麻の復興を必ず実現してみせるというと思いを、自らの志として持とうと心に誓った1日でした。
まずやることは麻の葉の毒性試験です。GHQに言われて70年毒性試験もしないまま規制してきた国に、改めて毒性試験を求めたいと思います。そして、もし毒性があるなら、毒を抜く新種改良をすればいいことだと思います。今のバイオテクノロジー技術であればたやすいことだろうと思います。
俄然やる気が出てきました!

私が郷里の物産に興味を持ったのは、都会から大勢の人を郷里にお連れしているうちに、麻に目を留められた人が何人かいらっしゃって、それからです。
情けないことに、心ある地元の方々が保存会を作ってまで守り抜くほどのものだとは、考えてもいませんでした。


涙が出るほど懐かしい映像

2014年10月13日 | 子供時代の思い出
夏はあたり一面麻畑でした。

私の生まれ故郷の映像です。
子供時代、父親が2階でラジオを聞きながら麻のアクとりをしていたのを思い出します。
仕上がった麻を部屋の中に吊るして乾燥させますが、キラキラと金色に輝いて、それはそれは美しかったです。
乾燥させた麻は農協を通じで出荷してましたが、金賞銀賞などと評価されて取引されていました。

そういえば昔の農協は、ほんとうに農家と共にあったと思います。



小学校中学校9年間の友を訪ねて

2014年01月04日 | 子供時代の思い出


山野彊君
理科が大好きで、いつもいろんなことを教わってました。
小学校時代、学校帰りの途中に彼の家があるので、しょっちゅう遊んで帰りました。
家には道具が何でもあって、錫と鉛を入れた缶をふいごで熱して溶かしてハンダを作ったりした記憶があります。
小学校時代は、なぜか無限の時間があったような気がしたものです。
お互い子供2人孫4人のじじいとなりました。

榛名湖の思い出

2013年12月08日 | 子供時代の思い出
今朝NHKで83歳の母親を榛名湖の旅に連れて行った映像が流れていた。

榛名湖、考えてみると、これほど自分の中で特別な湖はない。
小学校4年のとき、両親が5月の連休に榛名湖へ連れて行ってくれた。我が家は東京から行くと榛名湖の裏側にある。だからバスもない。歩いて登った。何時間かかったのだろうか?住んでいた岩島村は山の中なので、水たまりと言えば小さな池くらいしか見たことがなかった私にとって、榛名湖は圧倒的だった。しかもやっと登ってきた山の山頂にあったのだから信じ難い光景だった。そして榛名富士の美しいこと!
両親と一緒に出かけた思い出はこれしかない。
そして高校時代。目の前が雄大な赤城山で、後ろが榛名山だった。榛名山には仲間とは何度か登った、と言ってもバスだ。スケートにも行った。
結婚して、中古の軽自動車で妻子を連れて、郷里へ向かう途中に立ち寄ることもあった。
最後に行ったのはいつだったか。
テレビを見ながら、季節外れの榛名湖で一泊してみたい衝動に駆られた。

粗野にして愛

2013年03月16日 | 子供時代の思い出
母は、自分のことを「オレ」と呼んでいた。
毎朝5時に起きてかまどに火を入れ、朝食の支度をする。
私は、有線放送から流れるNHKの早起き鳥を聞きながら、みんな寝ているのに一人で起きて家族のために働いている母を思う。
母は、父と共に畑や田んぼ、山仕事をする。
11時半になると先に家に帰って昼の支度をする。
製材所のお昼のサイレンが鳴ると父が帰り一緒に昼飯を食べる。
食べ終わると母は横になる。
胃腸が弱いので、医者から食べたら30分間横になるようにと言われたと、頑なに守っている。
夕方もそうだ。早めに畑から帰って夕食の支度をする。
父は暗くなって手元が見えなくなると家に帰る。
一家団欒の夕食が始まる。
父はくだらない冗談を言い母はよく笑う。
母は食事が終わると、さっさと片付けて風呂に入って寝てしまう。
父は日記をつけて俳句をひねり、だらだらと起きている。

母は、6人兄弟の長女だった。
そのせいか人に命令する。
父も私もそれに従う。
粗野にして愛、そんな母だった。
この歳になって、私は父ではなく母似だと思うようになった。




年を重ねると月日の流れが速くなると感じるわけ

2013年01月14日 | 子供時代の思い出
私の解釈と同じ解釈が天声人語に載っていたので紹介する。

「子供には未知の行事や出来事が次々と訪れ、心の時が細かく刻まれる。だから振り返ってみると時間がゆっくり進んでいたように感じる。大人になると胸躍るイベントが減り、結果として今年も速く過ぎ去ったと感じる」というものだ。

私は、小学生の頃だったろうか、生まれてから永遠の時間を生きてきたなあと感じたときがあった。もの心つかない時からその時まで、実にいろんなことがあったと感じていた。これから先どのくらいいろんなことがあるんだろう、人生は長いんだなあ、という感想を持ったことを思い出した。
今66歳。思えば遠くに来たもんだ。

60歳から80歳まで何か社会に貢献するとしてあと14年弱。
毎年年初に3つのテーマを掲げてその年を送ろうと、今思った。

1.ユーザのユーザによるユーザのための情報システムへの貢献。
2.人々が争わない社会を創るための貢献。
3.身内の健やかなることへの貢献。

働かざるもの食うべからず

2012年10月30日 | 子供時代の思い出
これは母親の口癖だった。
進んで農作業の手伝いをしない息子(私)と風流人の夫を持った母は、いつもやきもきしていたと思う。

今、団塊の世代が65歳を越え始まった。
何も仕事をしないで家にいる人も多いと思う。
ゴルフやテニスに明け暮れている人もいる。
でも、生きている限り働かないといけないと思う。
働かざるもの食うべからずだ。
働く場所がないはずはない。ボランティアで介護や地域の清掃などはできるだろう。
自分が今できていないから偉そうなことは言えないが、遊んで暮らしていていいとはとうてい思えない。
健康な人間が遊んで暮らすことは悪だ。環境問題と言ってもいい。
働ける人はとにかく働く。
働くことは生きている限り義務。

父は汗っかきだった

2012年09月04日 | 子供時代の思い出
父は、いつも手ぬぐいを首に巻いて、ひと結びしていた。
畑仕事や山仕事をして、大汗をかいて、手ぬぐいで拭っていた。
父の手ぬぐいはびしょ濡れで臭かった。
しかし嫌いではなかった。家族を守る臭いだった。
だから私も小学校で手ぬぐいを首に巻いていた。

小学校4年の時だ。
担任の浦野先生が、突然、みっともない格好するな!と私に注意した。
何のことか分からなかった。
きょとんとしていると、手ぬぐいを首に巻くのはやめろと言う。
その時、先生の大学時代の友人が都会から遊びに来て、教室の出入り口に居た。

ああそうなのかと思った。
こんな田舎の子の教師をしているのが恥ずかしかったのかと。

大好きな先生だった。
しかし、情けない教師だと思った。

なぜ今日そんなことを思い出したのか分からない。




あじさいの思い出

2012年06月04日 | 子供時代の思い出
小学校3年のとき、担任が初めて女先生になった。
とてもやさしかった。
その先生が好きだった。
やがてあじさいの季節になった。
私は大輪のあじさいを切って学校に持っていった。
先生は大喜びで花瓶に活けてくれた。
しかし、昼過ぎにはしおれてしまった。
その年の12月悲しい出来事があった。
あじさいを見ると、小学校3年生の思い出がよみがえる。