片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

大谷貴子さんから本をいただいた

2008年12月29日 | 感動したこと
先日の黄原亮司チェロコンサートの途中でご挨拶いただいた、大谷貴子さんから著書二冊をいただいた。しかも署名入りで。コンサートで司会をしてくださった須賀さんから電話があり、大谷さんが私に著書を下さったという。須賀さんが家まで持ってきてくださった。
私はコンサートで会うまで、大谷さんを知らなかった。

「いきてるってシアワセ!」を読んで、私も骨髄バンクに登録することに決めた。まあ、献血はしているし、不慮の事故で死んだら、私の体の角膜や心臓(毛の生えた心臓です、これは貴重ですぞ!)はただちに切り取られて別の人の体の中で生きることになっているから、骨髄バンクに登録するからといって特別な決意があるわけではない。

大谷さんの素晴らしさに感動した。
大谷さんは大学院生のとき白血病と診断された。泣き明かした。大谷さんの病気は骨髄移植でしか治らないタイプだった。大谷さんは日本には骨髄バンクがないのを知り、自分のことでもあり、同病の人を救うことにもなるので、骨髄バング設立に向けての活動を始めた。
大谷さんは、その後、運良く姉が同じ型の骨髄液だったので、危険を冒して移植するかどうかだけの判断だった。半年が過ぎた。いよいよ危険な状況になり、いざ移植する段になって改めて調べると、姉の骨髄液は似ているけど同じではないことがわかった。そこで再び奈落の底へ。
しかし、その後奇跡的に母が同じ型だとわかった。親が同じ型である確率はゼロだというのに奇跡的に同じだったのだ。これは、多分、大谷さんに神様が役割を与えたのだろう。
ほとんど絶望的な状態で移植手術をした。そして奇跡的に生還した。
それから、骨髄バンク設立に向けての活動を活発に続け2年が経った。実は生理が来なかった。それで調べてもらうとすでに閉経だという。ここで最も落ち込んだ。それで、骨髄移植なんて意味がないと活動をやめる決心をした。
しかし、小さな子供が二人いるお母さんや、やはり小さな子供のいるお父さんなど、骨髄の提供者を待っている人たちと深くかかわって、自分の考えを捨てた。
そして今がある。
この話は、おおくの人が知っている話だろうが、私はこの歳になって知った。素晴らしい方が世の中にはたくさんいるものだと改めて感じた。

人のためにと思ってやっていると、それ以上のお返しをもらってしまうらしい。特に相手が弱い立場であればあるほど、こちらがいただいてしまうものが大きいと、人は言う。

ところで、、、、、、、
骨髄バンクへの登録は55歳まででした。献血では事前チェックはいつも問題なくパスしているのだから、骨髄バンクも同じような基準を作れないのだろうか。実年齢もせめて65歳までエントリーだけはできるようにするとか。