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中世西欧史 学習院大学

2007年05月12日 | 復習用入試問題
以下の文章はある『ヨーロッパ通史』の中世の章から引用した。これを読み,下線を付した文節あるいは語句について(1)~(8)の設問に答えなさい。学習院大学

 カールはイタリアへ出掛ける(1)以前,すでにザクセン戦争を開始している。ザクセン人は,エンゲルン人とともに,ライン川とエルベ川の間(2)に定住したゲルマン人で,一部は5世紀には北海を渡ってブリタニアに植民(3)している。ところがザクセン人の抵抗は執拗で,カールの武力とキリスト教宣教に対抗して,ゲルマン社会伝統の祭祀(4)を守ろうとする。大量殺戮と強制移住というアッシリア的強権をもってのぞんだカールの戦争がようやくザクセンをフランク王国の版図に収めたのは9世紀に入ってからのことである。
 その間,カールはイベリア半島へ兵を動かしている。コルドバのイスラム中央政権(5)とサラゴッサの地方政権の間に不和が生じたのを機会ととらえて,ピレネー山脈を越え,エブロ川流域まで兵を進め,辺境領を設定した。いわゆるスペイン辺境領(6)である。後代のある武勲詩(7)は,齢(よわい)200歳を超す老騎士カールの率いるキリストの旗の軍旅(いくさたび)とこれを描いている。その末尾にこう読める。
 王は弓型の天井の寝室に眠った,
 神の御使,聖ガブリエルが現れた,
 カールよ,帝国全土に軍勢を招集せよ,
 町々に異教徒が包囲陣を布いている,
 キリスト教徒がおまえを叫び求めている,
 皇帝(8)は出掛けることを望まなかった,
 神よ,わが生のなんと労苦の多きことよ,
 まなこは涙に濡れ,王は白髯をしごく
(1) カールはイタリアに数回旅しているが,その目的の一つは,当時北イタリアに国家的組織を作っていたあるゲルマン人王家との関係を調整することにあった。そのゲルマン人王家はなんと呼ばれますか。
(2) ライン川寄り,すなわち西側の土地をなんと呼びますか。後代「三十年戦争」の講和会議がもたれた土地として知られています。
(3) かれらは後代のデンマークに定住したユート人も誘ってブリタニアに進出し,いくつかの国家的組織を作った。総称してなんと呼びますか。
(4) 13世紀にアイスランドで書かれた叙事詩『エッダ』がゲルマン人の宗教のことを知らせてくれるが,同じ頃南ドイツでまとめられたと思われる,英雄ジークフリートの活躍するブルグント族の英雄叙事詩もまたゲルマン社会伝統の祭祀を知る上で貴重な史料である。なんと呼びますか。
(5) (a) この政権はイスラーム史上なんと呼ばれていますか。
(b) カールとほぼ同時代のバグダードのアッバース朝のカリフの名前を答えなさい。
(6) (a) 「スペイン辺境領」はその後国家的組織を作ることなく終わったが,フランク王国の解体後,ピレネー山中のキリスト教諸勢力がイベリア半島のイスラーム諸政権に対して攻勢に出る。これを「レコンキスタ」と呼んでいるが,その動きの中で半島西北部に成立し,しだいに半島中央部にまで勢力を広げた国家的組織が出現する。これをなんと呼んでいますか。
(b) 他方,半島東北部に成立し,地中海岸のカタルーニャまで版図に収めた国家的組織があった。15世紀の末に両者合同してスペイン王国を作る。その国家的組織をなんと呼んでいますか。
(7) この武勲詩は12世紀のはじめに,後代に伝わったテキストのかたちに筆写されたと考えられている。物語の主人公であり,カールの伝記記者エギンハルドゥスがブルターニュ辺境伯と伝えているカール側近のある武将の名前をとって呼ばれている。なんと呼ばれていますか。
(8) スペイン遠征当時,カールは「フランク人の王」である。かれが「ローマ人の皇帝」の称号をとるようになったのは西暦何年からのことですか。解答欄には数字だけ記入しなさい。


正解
(1) ロンバルド(ランゴルバルド) (2) ウェストファリア
(3) 七王国(ヘプターキー) (4) 『ニーベルンゲンの歌』
(5) (a) 後ウマイヤ朝 (b) ハールーン=アッラシード
(6) (a) カスティリャ (b) アラゴン
(7) 『ローランの歌』 (8) 800


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