【テューダ】朝【エリザベス1世】は、国内の【毛織物工業】を保護・育成しました。しかし、【1588】年の【アルマダの海戦】で、【スペイン】の無敵艦隊に勝利すると、【香辛料】を扱うアジア貿易に参入するチャンスが生まれたため、【1600】年に【東インド会社】を設立し、アジア貿易への参入を図りました。一方、うまくいかなかったものの、【1584~85】年に【北米】大陸への進出も行っています。この計画は中南米をスペインに支配されている当時、北米に植民地を建設するというものです。【ウォーター=ローリー】がエリザベスが結婚をしていなかったことから、この植民地を【ヴァージニア】植民地をしています。しかし、北米大陸の植民地建設は軌道に乗らず、アジア貿易は端緒についたばかりの状態で、エリザベス1世は結婚をせずに亡くなったため、テューダ朝は断絶し、【スコットランド】王国から【ステュアート】家【ジェームズ1世】をイングランド王国の国王に招きました。
ジェームズ1世は国内の統一を図るため、【国教会】を人々に強要しました。その結果、イングランドのカルヴァン派で、毛織物業者が多かった【ピューリタン】は弾圧され、【1620】年に北米に信仰の自由を求めて亡命しています。彼らのことを【ピルグリム・ファーザーズ】とよびます。このようにピューリタンによる毛織物業が低迷していくこともいとわなかった理由は、エリザベス1世がはじめていた香辛料貿易と北米大陸経営への期待があったからです。
【1607】年に【ジョン=スミス】がインディアン娘【ポカホンタス】の協力を得て【ジェームズ・タウン】建設に成功し、【ヴァージニア】植民地を軌道に乗せます。【タバコ】生産が期待されましたが、この段階ではまだまだです。そのような中、【1623】年香辛料貿易をめぐって、建国間もない【オランド】に【アンボイナ】事件で敗北してしまいます。東インド会社は更新流貿易から撤退しなければならず、さらに日本との貿易でもオランダに敗れてしまいます。
こうなると、国内の毛織物製品を輸出して外貨を稼ぐこともできなくなり、香辛料貿易にも失敗。北米大陸経営はまだまだの状態になってしまい、ステュアート朝は【税収難】に苦しみはじめました。これがピューリタン革命の原因です。
最新の画像[もっと見る]
-
王政復古~名誉革命期のオランダ・長老派議会との関係 1年前
-
イタリア戦争 1年前
-
近代主権国家 1年前
-
ピューリタン革命は特権階級の分裂 1年前
-
ブルボン朝 絶対王政の完成 1年前
-
アメリカ独立革命はなぜ、どこが革命なのか? 1年前
-
イスラム史年代暗記 1年前
-
西欧哲学の系譜 1年前
-
2020年慶応義塾大学経済学部問題 4年前
-
2016年上智大学TEAP(改)中南米©植民地の特徴 4年前