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魏晋南北朝時代の全体像

2014年10月28日 | 高2用 授業内容をもう一度
 前後400年間に及ぶ漢の支配は,後2世紀後半期には外戚や宦官の勢力が大きくなり,その双方が抗争して皇帝権は衰えた。各地では,【184】年【張角】がひきいた【黄巾の乱】に代表される農民反乱がおこり,群雄が並び立つ様相となった。 華北では後漢の皇帝を迎えて黄河一帯に勢力を及ぼした曹操・曹丕の魏が,長江の下流域には【孫権】の呉が,四川では劉備の蜀がそれぞれ立っていわゆる三国鼎立の形勢となった。
 秦漢時代を通じて中国に大きな脅威となっていた騎馬民族匈奴は,前漢の【武帝】代に本格的な遠征を受けたことなどにより弱体化していたが,後漢代には分裂し,【西匈奴】は後漢に服属した。後漢では投降した南匈奴を中国北辺に定住させたが,これは漢民族の世界に北方の騎馬遊牧民が本格的にはいりこむ始まりとなった。魏・呉・蜀三国の均衡はやがて破れる。魏は蜀を滅ぼしたが,その魏も将軍の【司馬炎】に国を奪われ,265年,【晋(西晋)】が現れることとなった。 
 晋は強い権力を維持する方策として,一族を王として各地に封じて帝室の守りを固めようとした。しかしそれは裏目に出て,諸王は皇帝の位をめぐって相争う結果となった。これは【八王の乱】として知られるが,この内乱に乗じて中国内部に定住していた匈奴が決起し,首都洛陽,続いて長安を攻めたので,ついに晋は滅亡した。この南匈奴の傭兵たちの反乱を【永嘉の乱】という。
 このあと華北では,匈奴や中国周辺から侵入した異民族も加わってつぎつぎに国を建て,めまぐるしい興亡がくり返される。この4~5世紀にかけての約130年間を【五胡十六国時代】と呼ぶが,5世紀前半には【鮮卑】の【拓跋氏】が建てた【北魏】が華北を統一した。
 北魏では,山西一帯にいた漢民族のなかから多くの官僚を登用して,中国風の統治に移行していく。特に【孝文帝】は,【平城】から【洛陽】に遷都し,鮮卑の旧慣のいくつかを禁止し,言語も中国語を採用した。こうした【漢化政策】とともに,自作農の育成を企図した【均田制】や,郷村を組織化する【三長制】も実施されたが,やがて内部分裂をきたし,ついには東西に分裂した。東魏は北斉に,西魏は【北周】に,いずれも禅譲という形式でとってかわられた。
 この時代に行われた【九品官人法】は,新しい官吏登用制度だったが,それはやがて【門閥貴族】が形成されることにつながっていった。
 南方の状況はどうだったか。晋の王族の一人が,【江南】の地で北方の戦乱を避けて移住していた豪族や在地の豪族たちに推されて晋室を復興した。これを【東晋】といい,それ以前を西晋として区別する。こうした経緯で,東晋内部では豪族たちが大きな勢力を占め,何代にもわたって国の高位高官を独占し,やがては貴族としてその地位を確かなものとしていった。
 この東晋でも末期には政治的混乱から内乱が起こり,将軍出身の劉裕が禅譲の名のもとに政権を奪い取って,宋を建国した。そののち,【宋】をうけて【斉】・【梁】・【陳】の4王朝が次々に興廃したが,それらを【南朝】といい,北魏をふくむ華北の5王朝を北朝と呼ぶのとあわせて【南北朝】と総称される。また,三国時代の【呉】から数えて,現在の【南京】にあたる【建康(建業)】を首都とした王朝を【六朝】とよぶ。
 江南を中心とする地域は,自然条件に恵まれ生産性が高く、次第に米作が普及して息、後世の中国経済の中心地に発展する基礎が作られた。たた、このような経済的発展の結果、江南では【六朝文化】と呼ばれる独特の文化が発達した。貴族のサロンを中心に,王羲之の【書】・顧之【画】・陶淵明の【詩】などに優れたおおくの芸術家が輩出した。俗塵を離れ,【清談】を交わす【竹林の七賢】に見られる【老荘思想】的な文化が現れたりした。そうした社会的背景もあって,【寇謙芝】が【道教】教団を成立させた。この教団を【新天師道】という。後漢代に伝来した仏教は南北朝双方で盛んに信仰され,北朝では有名な【敦煌】・【雲崗】・【竜門】の石窟寺院の造営が始まった。

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