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ワークシート(12)古代ローマ史(4)軍人皇帝時代~ドミナートゥス制

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(12)古代ローマ史(4)軍人皇帝時代~ドミナートゥス制

 193年セヴェルス帝が即位した頃からローマ帝国は政治が乱れてきた。この頃から、属州で辺境を守る将軍が兵士に推薦されて皇帝に即位する「軍人皇帝」が登場している。「カラカラ帝の大浴場」で知られるカラカラ帝は、212年「アントニヌス勅令」を出してローマ帝国内にいる全自由民にローマ市民権を与えた。この【 】帝が出した「【 】勅令」でローマ帝国の属州民も無条件でローマ市民になった。
 253年ヴァレリアヌス帝が即位し「軍人皇帝時代」が本格的に始まった。253年に即位した【 】帝は260年ササン朝ペルシアのシャープール1世との戦いで捕虜にされたが、「【 】時代」はローマ帝国が弱体化した時代である。この軍人皇帝時代には253年から284年までの約50年間に26人もの皇帝が即位した。めまぐるしく皇帝が替わったため、253年から【 】年の「【 】時代」には、ローマ皇帝の権威は著しく低下してしまった。
 混乱していたローマ帝国を284年に統一したディオクレティアヌス帝は、都をニコメディアに定め、ドミナートゥス制を開始した。この【 】帝が始めた【 】制とは専制君主制のことで、古代オリエント世界の皇帝のように神として振舞う帝政である。この【 】制に帝政が変化した結果、ローマの伝統的な元老院は事実上廃止された。また、【 】帝は皇帝を神として信仰しないキリスト教徒を迫害した。広すぎる帝国の領土を4人の皇帝で納める「4分統治」を行ったのもディオクレティアヌス帝である。しかし、【 】帝が死去すると残った他の3人の皇帝が争い内乱になった。
この内乱に勝ってローマ帝国を再統一した皇帝がコンスタンティヌス帝である。この【 】帝はディオクレティアヌス帝が取った「【 】統治」を止めてローマ帝国を自ら一人で統治した。また313年ミラノ勅令を出してキリスト教を公認し、つづいて325年ニケーア公会議を開いてアタナシウス派を正統なキリスト教とした。正統とされた【 】派はイエスが神の子であるとする「三位一体説」を主張した。この「【 】説」を否定したアリウス派はイエスを人間と考えた一派である。そのため【 】派は【 】年の【 】公会議で異端とされ、ローマ帝国の外にいたゲルマン人の間に広がった。このように【 】年【 】勅令に公認されたキリスト教を最後に迫害した皇帝がユリアヌス帝である。そのため【 】帝は「背教者」と呼ばれる。
テオドシウス帝は【 】帝によって最後の迫害を受けたキリスト教を392年に国教に定めた。【 】年にキリスト教がローマ帝国の国教になったことでローマの伝統的な神々への信仰は禁止された。キリスト教を国教とした【 】帝は395年に亡くなる直前に二人の兄弟にローマ帝国を分けて相続させた。そのため【 】年にローマ帝国は東西分裂した。




ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年カラカラ帝は【 】勅令を出して、帝国内全ての自由人にローマ市民権を付与した。
(2) 【 】時代には皇帝がめまぐるしく替わったため、皇帝の権威は著しく低下した。
(3) 【 】帝は【 】年にローマ帝国を統一して軍人皇帝時代を終わらせた。
(4) 【 】帝はドミナートゥス制を行い、【 】教徒に対する大迫害を行った。
(5) 【 】制とは元老院などの共和制時代の制度を廃止した専制君主制である。
(6) 【 】帝は帝国を4つに分ける「【 】」を行い、4人の皇帝で帝国を治めた。
(7) 【 】年【 】勅令でキリスト教を公認した皇帝は【 】帝である。
(8) 【 】年【 】公会議で「【 】説」を説くアタナシウス派が正統とされ、【 】派が追放された。
(9) キリスト教を最後に迫害した【 】帝は「背教者」と呼ばれる。
(10) 【 】年に【 】帝はキリスト教を国教とした。
(11) 【 】年に【 】帝によってローマ帝国は東西に分裂した。


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