【16世紀の後半】に、スペインが【メキシコ銀】を中国に持ち込み、中国で作られた茶や【陶磁器】を持ち帰るようになりました。【1545】年に【ポトシ銀山】を開発し、良い港があるメキシコ(ここもスペイン領です)の【アカプルコ港】から銀を持ち出しました。銀は太平洋を渡って【1571】年に建設されたフィリピンの【マニラ市】に運ばれ、中国江南地方の海岸線に持ち込まれました。このスペインが行った太平洋横断貿易を港の名前にちなんで「【アカプルコ貿易】」といいます。
明の【海禁策】は北虜南倭の時代になって緩んでいましたから、スペインなどの商人が江南地方に大挙して来るようになると、実質的に海禁策は取れなくなっていました。
さて、銀が【江南地方】に大量に流通するようになると、少し難しい言い方をすれば、経済規模が大きくなります。少し説明を補足します。例えば、日本の田舎の村と都会を比較して考えてみればわかります。田舎では仕事も少ないし、流通しているお金も少ない。経済活動全般が小さい規模だといえます。都会はその逆です。とかではさまざまな仕事があり、人間が動く。税金だって田舎に比べれば莫大な金額が納められていうはずです。このような状態を、経済規模が大きいといいます。メキシコ銀の流入で【江南地方】の経済規模が大きくなったわけです。
もう一つ知っておかなければならないことがあります。明の農村では日常の生活では【銅銭】が使用されていました。これは江南地方でも同じです。経済規模が大きくなって江南地方の都市部で商売をするとき、銅銭では高額な支払いはできません。【宝鈔】という紙幣もありましたが、北虜南倭の時代に使われなくなっていました。そこで銀が使用されたわけです。経済規模が大きいので、都市部では納める税額も大きいので、【神宗万暦帝】の時代、【1570年代】に【張居正】が銅銭で納める(銭納)のをやめ、【銀】で納めるように税制を変えたわけです。まさにスペインの【レガスピ】がマニラ市を建設した頃のできごとです。この税制改革は【江南地方】から始められ、中国全域に施行されました。都市部だけではなく農村の農民にも銀納が求められたことも重要な点です。
それまでの【両税法】に変わった【一条鞭法】が施行された様子は以上のようです。また一条鞭法は地税を銀納するだけでなく、丁税も銀納にしたところに特徴があります。一条鞭法は【地税と丁税を一括して銀納する】税制と説明できます。補足をすると、丁税とは大人の男性に掛かる税です。現在の住民税に似ているともいえます。そこにいるから税が掛かる。歴代の中国王朝では、道を作ったりする公共事業は男性を、税(丁税)として駆り出して働かせていたわけです。今は税金で○×建設といった会社に委託してやらせます。
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