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フランスとNATO

2011年12月27日 | 高3用 授業内容をもう一度
北大西洋条約機構(NATO)は,【1949】年に設立された西側諸国の軍事同盟であり,【1955】年にソ連と東欧諸国が結成した【ワルシャワ条約機構】に対する冷戦の象徴的な存在であった。その最も重要な任務は,東側の軍事的脅威に対する【封じ込め政策】の一翼を担うことであったが,NATOのもつこうした性格は,冷戦の終結後,地域紛争への対応や平和維持活動への取り組みが強化されることによって変化し始めた。しかし,冷戦時代のNATO内にも,ソ連との関係やNATOの性格について,見解の相違がなかったわけではない。
 封じ込め政策という言葉を世界に知らしめた【1947】年7月の論文「ソ連の行動の源泉」を書いた【ジョージ=ケナン】は,のちに,封じ込め政策の対象として軍事的脅威は全く念頭になく,その標的はスターリンの統制下に統一されていた共産主義というイデオロギー的な脅威であった,と証言している。冷戦が軍事的対立という性格を色濃くもつにいたった要因のひとつには,軍事的脅威が必要以上に誇張された結果として対ソ連外交が軍事偏重の性格を強め,それに対抗してソ連側も軍備拡大を加速させていった,という事情があった。NATOの成立からワルシャワ条約機構の設立までには,封じ込め政策を消極的にすぎると評した【アイゼンハウアー】政権による対ソ強硬外交や核兵器による大量報復戦略の採用があり,東側でもそうした動きに対抗して,様々な相互援助協定が網の目のように構築されていた。
 フランス外相の【シューマン】は,NATOの設立条約をその成立直後に評して,「この条約はソ連との不可侵条約と両立する。フランスはソ連に直接敵対する連合には参加しない。…フランスはソ連と今もドイツの脅威に備え防衛協定を結んでいる」と述べたという。この言葉は,NATO結成当時のフランスには,ソ連に対する警戒以上に強い不安感がドイツに対して抱かれていたことを示すものであった。しかし,その後,ドイツの再軍備とNATO加盟を承認する【パリ協定】が締結された。ワルシャワ条約機構は,これに対抗して東側が結成したものにほかならなかった。ドイツの脅威をヨーロッパ統合の枠組みの中で抑えるという道筋がついたこともあって,フランスにとっても,NATOがもつ対ソ同盟としての重要性が増したのであった。ただしフランスは,NATOがアメリカの支配に従属することを嫌い続けた。【ド=ゴール】は,結成直後のNATOへの明確な評価を避けたばかりでなく,【1966】年にはフランス軍の【NATO】軍からの撤退を決定したのである。


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