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唐の歴史  2008年立命館大学 経営・経済

2009年07月16日 | 復習用入試問題
次の文章を読んで空欄に最も適切な語句を記入し,下線部について以下の問いに答えよ。

 大唐帝国の第2代皇帝として,国内を統一し A と称される政治的安定期を築いた太宗皇帝も,643年初め,幽愁のどん底に落ち込んでいた。長男の皇太子承乾に非行多く,四男濮(ぼく)王泰を担いで皇太子のすげ替えをもくろむ一派が台頭し,廷臣たちの派閥争いが激化したのである。かつて太宗自身が次男の身で兄と弟を殺害し,実父高祖から帝位を奪い取るという武力クーデターを敢行したのであるが,それは太宗にとっては生涯にわたる拭いがたき汚点として悩みの種であった。ところが,その太宗の息子たちは父親の悪行の歴史を見て,自分たちもその模倣に走ったのである。皇帝として,父としてその光景は,自らの抹殺したい過去が立ち現れて復讐を始めたかのように思われた。思いあまった太宗は大臣たちの前で自殺未遂を図るという前代未聞の醜態を演じてしまった。ここで主導権をとったのは太宗の亡き皇后長孫氏の兄長孫無忌である。彼は御しやすい性格の九男晋王治を,次期皇太子にするように立ち回り,承乾・泰両者を幽閉してしまう。
 こうして,649年即位した第3代皇帝李治こそ,唐朝の最大領域を達成した大帝 B である。当初,彼は長孫無忌ら前代からの重臣の指導に従い,トルキスタンに拠点を置いていた遊牧帝国 C を撃破し,隋の煬帝・唐の太宗の2皇帝も失敗した〔1〕高句麗討伐を遂行し,668年,遂にこれを滅ぼすことに成功した。
 しかし,その期間,宮廷では勢力の交替が進行していた。 B は元来病弱で,そこから惹起される重臣たちの影響力拡大は,皇帝政治の本質として決して望ましいものではなかった。その彼を強力に補佐する女傑が現れた。彼女こそ名高い D である。朝鮮半島での戦役が続く中, B は遂に病に倒れ,最高指導者としての能力を発揮できなくなってしまう。必然的に朝廷の主導権は,皇后である D の手中へと落ち着き,皇帝・皇后の共同統治のもと,唐朝は外征を成功させ,一方,重臣たちは或いは屈服し,或いは粛清され,政権は皇帝夫妻のものとなり,官僚たちは,両人を「二聖」と呼んだ。
 683年, B が崩御すると,またも後継者問題が持ち上がった。夫妻の実子には凡庸な人物しか残っておらず,国内外の問題に対処するには母后の D しかいなかった。遂に彼女は政権を保持し続けたばかりか,革命を起こし周朝を建国,中国史上唯一の女帝となった。先にあげた情勢から,官僚たちは,この破天荒な出来事を黙認せざるを得なかった。
 彼女の治世中,復活した周辺諸民族の攻勢のもと,〔2〕律令体制は崩壊に向かい,老齢の彼女を引退させてあとを継いだ, E もその皇后に操られ,政治は乱脈を極めた。
 こうした状況を再び武力クーデターで打破したのが,唐朝第6代皇帝 F である。彼は官界の綱紀粛正に努め,科挙官僚・門閥貴族両者を操り, G と称される唐朝の最盛期をもたらしたが,その彼も晩年,楊貴妃に耽溺して国を傾けるにいたったのは皮肉な歴史のスパイラルといえよう。

〔1〕 
(a) 663年に,百済救援の倭国水軍が大敗した戦役は何か。

(b) 唐が高句麗を滅ぼしたあと,平壌に置かれた都護府は何と呼ばれたか。

〔2〕 当時,外敵の中国内地侵攻に対して,兵力の徴発がままならなかった。いわゆる律令体制の一環をなす,この時期の兵制を何と呼ぶか。


【解答1】 
A 貞観の治 B 高宗 C 西突厥 D 則天武后
E 中宗 F 玄宗 G 開元の治
〔1〕 (a) 白村江の戦い (b) 安東都護府
〔2〕 府兵制


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