漢方談話 (埼玉県日高市にあります漢方専門薬局 環のブログです)

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これからはテレパシーの時代? 厚揚げと春菊のあんかけ仕立て

2013-10-17 17:20:03 | 秋の豆腐料理
昨日のお休みにパステルを描きました。
無心のひと時で、とっても癒やされます♪

光5

光6


もみじ1


もみじ2


もみじ3


実は、もみじは手のひらを書きました。
千手観音もみじなんです。たくさんの手を差し伸べてくれるモミジ!

え?

怖いですと?

全然怖くナイデス・・・。

話は全然変わりまして。

かっこちゃんのメルマガに、びっくりする情報がよく載っています。
これは先日とどいたもので、言葉を主にというか、唯一の通信手段として使っている私には
衝撃的な内容でしたので、拝借させていただきたいと思います。

「きんこんの会」というのがあって、
國學院大學の柴田先生が、声がでなかったり、一見意思がないといわれているような
植物人間とされている方々の内なる声を通訳される会のようです。

その きんこんの会で北海道からきた方が発せられたメッセーにドキドキしました。

以下 メルマガより

おだじまゆうこさん:
私は北海道から来た、おだじまゆうこです。
北海道から来るなんてやっぱりちょっと 変ですよね。
私の母は少し変なので、(笑)北海道から私を連れてきちゃいました
が、
私はさっき、この先生に言ったのですが、誰か女の人で通訳できる人はいないので
すか。(笑)
女の人の声でやっていただきたくてしょうがない。(爆笑)
それはしかたないのでこのまま続けますが、私はじつはもう24さ・い・・・27歳なので、
これは先生が間違いました。
27歳なのですが、私の体はこんなふうな体でずっときたので、
なにもわかっていないとか言われ続けてきたので、もうこのまま、
この人生を生きていってやろうではないかという感覚になっていたので、
わざわざ言葉を聞きにこられても迷惑だという(笑)
ぐらいの気持ちになっていたので、

さっきこの先生には、横から割り込んできた人だと言いました。

私は、この人生をこの体の、みんなから理解されない状態のこの私で
全うするつもり でいたので、世の中を別に恨んでいるわけでもなく、
自分のこの与えられた定めというものに対して、
きっちり自分は見据えていくという覚悟でしたので、
その覚悟を横から揺るがすような人が現れたのは、
少し迷惑でしたが、これをさっきなんと表現したかというと、
大変申し訳ないのですが、今日は交通事故の後遺症の方もいると思う
ので、そこは許していただきたいのですが、
さっきこの先生になんと言ったかというと、

私は交通事故に遭ったようなものなので、
交通事故にあったような私のこの運命を引き受けていくしかないわねといって、
私はこれで、これまでの私の何もわからない人間として生きていくという
気構えもくずされてしまったので、ここからは仕方ないけど、
私もわかっているわということで(笑)話をさせていただきたいと思いま
す。

(二つ目のメルマガにつづく)

仕方がないけど私もわかっているわというぐらいの感覚を持っている人間が
いるということも伝えたいなと思ったので、
とても気持ちがいいです。

私は母にはとても愛されてきたので、
何も不自由することもなく生きてきましたが、
母には大変申し訳ないのは、
母の人生いったいどうなっちゃうのかということでした。

母は私が人生だからいいと言うけれど、
どう考えても自分の人生があるはずなのに、
母は私が人生だと言うけれど、私は別に、
私は母の人生ではないというか、
母が私の人生ということはないので、
お互いさまと言えないのはこれだけです。

あとはだいたいお互いさまなのですが、
母は私を人生の生きがいにするように、
私は母を人生の生きがいにすることだけはできないので、
そこは申し訳ないなと思っていますが、私はこうして母にずっと
抱かれて、ここまできましたが、何不自由することなくというのは、
母との関係だけで、あとは何ひとつ自由なことはなくこうやって生きてきましたが、
私はこの人生を振り返ってみて、やはり人間というのはすごいなといつも思っています。

私がなんでこんなに開き直れたかというと、
やはりこの体にも生きている意味があるということを、
つくづく感じさせられることがあるからです。
どういうときにそういうことを感じるかというと、
私が何かつらいときがあると、誰か必ず私のそばに来てくれて、
必ず声をかけてくれます。
私のことが何もわかっていないと思っている人でも、
私が悲しそうな顔をしていると、大丈夫と声をかけてくれます。
人間というのは、相手が、言葉がわからないということがわかっていても、
必ず何か言いたくなる存在なのだなと思って、
人の心の機微みたいなものは、声をかけられている私が一番 わかるので、
人の心の機微もわかることにおいては、
私はここの仲間たちは別ですが、世の中で私の右に出る人はいないと思っていますが、
さっきダウン症の方が私たちの表情もわかっているということは何度も実感したことがあります。

私の顔を見て、顔をじっと覗き込んで、話しかけてくれる人の中に、
じつはけっこうダウン症の人が多かったことをさっきの話を聞きながら思い出していました。
私が眠っているかのように思えていても、
ダウン症の人たちは、私が眠っているとは全く思わずに、
私が起きていることをわかって、話しかけてくれたのですが、
なんでこの 人はわかるのかと、いつも不思議に思っていましたが、
そういう能力が私も見抜けていましたので、
やはり私には人を見る目が養われてきたのだなと思います。
だから私はこの体で生きてきて、何が良かったかというと、
みなさんよりも、仲間たちは別ですが、みなさんよりもたくさんの人間を見て
生きてきたということになります。

だから、人を見て生きてきたことを、
人の人生の幸せをしたことだとするならば、もしと
いうことですが、もし人の顔をたくさん見れた人が幸せだということにしたならば、
私ほど幸せな人はいないことになります。

だから私は別に誰も私のことをわかっていると思わなくても、
私だけが私をわかっているなら、
私はこれでいいというふうに思っています。

さすがにこのへんになってくると、私も最初のジョークは別にして、
少し真面目になりすぎたかと、はっと我に返ってしまいました。(笑)
私は基本的には、ふざけている感覚が好きなので、
そろそろ元に戻ろうと思いますが、

私はそういう感覚で生きてきたので、
この体で生きてきたことを何ひとつ恥じてもいないし、
不自由だとも感じていません。
だから改めて、今度は真面目というか、本当の意味で交通事故のようなことで、
こういう体になられた方は、ぜひ私のことを覚えておいてください。
あの会に確か北海道から、
私は分かられない方がよかったというとんでもないことを言っている人がいたということ
だけ伝えられたら、私は今日ここに来た価値があると思います。

遠くからやって来て、それだけかと言われたら、それだけだと言うしかないのです
が、
私がみなさんに伝えたいと思ってきた一番のことは、やはり、
私はべつに分かられなくても幸せだったということです。
なぜ、こんなことを言ったかというと、
母が最近、言葉がわかる人が現れたという言い方を聞いていたときに、
うなじに少しかちんとくることがあって、
その人に会ってみないとわからないと思ったのですが、
その人はもしかしたら、
言葉がわからない人間はばかにしているのではないかと
思ったので、私はそんな言葉のない人間をばかにするような人には、
私が、言葉があるなんて絶対に言いたくないと思っていたので、
そのへんを確かめに今日はやってきたのですが、(笑)
相変わらずこの人はなんなのかよくわからないので(爆笑)
私は・・・話をしてしまったので、たぶんこの人は、
あまりそういう問題に関しては、どっちでもいいと思う(笑)ような人のようでした。

この人は、それほど言葉がわからない人間をばかにしているようでもないので
安心しましたが、やはり私が一番気になっていたのは、
言葉だけがすべてだという話になるのが大嫌いだったので、
言葉は全てではないということを、これは東京に出かけて
行って、私が言わないと大変なことになると思ったので、
母が東京に行くと言ったときは、そんな無理しなくてもと思ったのですが、
どうせ行くと決まったなら、私はそのことをきっちり言って帰らないと、
北海道から来た意味がないと思ったので、
そういうことを考えてきました。
以上で私の話は終わります。あとで誰かひとりでいいで
すから、女の人の声で私の(爆笑)通訳をしてください。先生の奥さんは少しできる
んでしょう。先生の奥さんちょっと来てください。(爆笑 拍手)

(奈苗先生の通訳で)

今度は字を書くのはびっくりです。これなら母にできると思いましたので、
教わって帰りたいと思います。
せっかく遠くから来たので、よろしくお願いします。どうぞ次
の方で。(拍手)

司会(K君):
また先生も言ったけど、すごい人が来たもんだと僕も感動していました。
僕たちはやっぱりそのことを忘れては絶対にいけないので、
そのことを伝えるために北海道から来てくださって
本当にありがとうございました。
僕たちは、ずっと言葉がない子供として扱われてきたので、
言葉がない状態に関する思いも相当なものがありますが、
もちろんしゃべれたほうがいいに決まってるけど、
しゃべれない状態の深みというものも、
きちんと伝えなくてはいけないときに、
今日のあの話はあまりにもすごすぎて、感動してしまいました。
私は交通事故みたいなことで、柴田先生にあったなどと
いう人は初めてなので、とても本当に交通事故と言ったから、
失礼な言い方になっている方には申し訳ないのですが、
そのぐらい人生が変わるという意味では
本当にそういう意味だったのかもしれません。
このまま喋らない人間として生きていくという
覚悟は、僕も持っていたので、
そのことは、ここまできっちりと言う人がいたので、
大感動ですが、それでは次の方に移りたいので、やはり新しい方にお願いします。
<引用ここまで>・・・・・

みなさんにもきんこんの会で、いったい何が起きているのだろうと、ぜひ、お出かけ
いただきたいです。かつこ

以上がメルマガです。

長い引用で、すみません。
でも、どこも端折りたくなかったのです。(行間は私が入れてしまいました。)
この方のメッセージのパンチの切れが、とても気持ちよく入ってきました。

人と人の関係において、
相手が発する言葉が、相手の考え100%とは限りません。
言葉は相手の考えの ほんの一部であること。

「相手の思いを察する」ということが
日常であるように、言葉をヒントにしながらも、相手が本当に考えていることに
寄り添いながら私達は生活しているように感じます。
それを、相手がこう考えているんだろうと、わざわざ言葉にする必要もないのは、
言葉にするということがゴールではないから。

理解しあれば十分だから。

理解しあう手段は、言葉だけとは限らず、表情であったり、話し方、みぶりてぶり
目線、いろいろある中、一種テレパシーのようなものも含まれるのかもしれません。
何ヘルツという周波数で発せられる波動も。

言葉にしばられないというのは、何か自由になった気がします。


それから、おだじまさんの言葉から、はっとしたことは
人はいつの間にか自分と同じことができない人に対して
傲慢になってしまうことがあるような気がするのです。

そして、人が出来ることを自分ができないときに
卑屈になってしまうことがあるように思うのです。

でも、それが全て「個性」だとしたら?

人と比べる必要もなく、
それぞれの個性を尊重しあえたら
素敵なことが起こりそうだな~っと思いました。

長いブログをお読みいただき、ありがとうございます


昨日の夕飯です。



厚揚げと春菊のあんかけ仕立て
若布のポン酢がけ
サラダ菜サラダ
人参と玉ねぎのみそ汁
かまどごはん

昨日はちょっと目を使って・・
春菊と人参にはともに目をよくしてくれる働きがあります。

なぜ、目を使ったかは、近日中に・・・。