「スターリン秘史」が完結しました。 まず、「朝鮮戦争終結。アジア『第二戦線』戦略の総決算」について、不破さんの分析・見解を紹介したいと思います。
不破さんは、 「スターリンがアジア『第二戦線』戦略にもとづいて起こした朝鮮戦争は、1953年7月に終結しました。 スターリンのこの戦略は、いったい、世界、とくにアジアに何をもたらしたのか、いくつかの角度から、その総決算を試みたいと思います」と述べ、次のように指摘しています。
「(1) ヨーロッパでの西側陣営との軍事的な正面対決を避けるために、アメリカの軍事的、政治的対決の焦点をヨーロッパからアジアに移そうとしたスターリンの思惑は、その限りでは、確かに一定の成功を収めました。 1950以後、戦争と冷戦の重点は明らかにアジアに移りました」
「(2) しかし、この戦争によって、アジアが受けた被害はきわめて大きいものがありました。 アメリカが主導する軍事同盟は、朝鮮戦争以前には、北大西洋条約機構(NATO)だけでした。 アジアでは、新中国成立後の1950年1月、アメリカのトルーマン政権は、台湾、朝鮮半島をアメリカの防衛ラインの外におくという政府宣言を発表し、中国が台湾解放作戦を企てても軍事介入しないという事実上の意思表示をおこないました。 これは、将来の米中関係の確立を視野に入れた政策声明だという見方も生れ、アジアの平和的発展の展望も開かれつつあるかに見えました」
「その情勢を一変させたのが、朝鮮戦争でした。 朝鮮半島が、熱い戦争の戦場になっただけでなく、アメリカ政府は、1月の声明を取り消して、台湾問題でも中国と対決する立場を明らかにし、さらに、日米安保条約(1951年)、アンザス(ANZUS 1951年)、東南アジア条約機構(SEATO 1954年)、中央条約機構(CENTO 1955年)と軍事同盟の網の目でこの地域をおおう戦略をとりはまじめました。 まさにアジア・太平洋地域は、アメリカ帝国主義の戦争と侵略の政策が集中する地球上最も危険な地域となったのでした」
「(3) 朝鮮半島が受けた被害に、きわめて大きいものがあったことは、言うまでもありません。 朝鮮半島の全域が戦場となった上、戦線が38度線から南へ、南から北へ、さらに北から南へと、繰り返し移動したため、多くの地域が何度も戦火にさらされました。 しかも、民族を分断しての戦争だっただけに、民族的悲願である南北統一への道を決定的に困難なものとしたことは、この戦争がもたらした最大の悲劇だというべきでしょう」
「(4) 朝鮮戦争の直接の当事者となった中国が受けた被害は、絶大なものがありました。 すでに実施段階に入りつつあった台湾解放は無期延期とされたうえ、内戦の直後に最新鋭の武器と装備をもつアメリカ軍との大戦争に取り組んで、40万人もの犠牲者をだし、経済的にも国民経済建設の最初の段階で戦争の重荷を負わされたのです。 もし、ソ連が朝鮮戦争を企てなかったら、さまざまな複雑な要因があったとしても、新中国の前途にはまったくちがった展望が開かれたであろうことは、想像に難くありません」
「(5) 最後に日本です。 朝鮮戦争は、アメリカが日本の全土を極東における戦争と侵略の基地とし、警察予備隊(-保安隊ー自衛隊)の名で日本の再軍備に道を開く上で、絶好の情勢をつくりだしました。 そして、スターリンの干渉による日本共産党の徳田・野坂分派への軍事方針の押しつけは、日本共産党に深刻な政治的打撃を加えただけでなく、講和を前にした重大な時期に、アメリカ占領軍に日本を事実上の戒厳状態におく口実を与え、民主・平和運動を無力化させることを容易にさせました。 事実、講和条約と日米安保条約が締結された1951年には、首都東京では『平和』と名のつく集会は”盆踊り”さえ禁止するという戦時さながらの禁圧体制が敷かれました」
「こうして、アメリカは、日本の反動支配勢力の協力のもと、自分が勝手に描いた設計図どおりの講和条約と日米安保条約を、国民的規模の反対運動に直面する恐れなしに、強行することができたのでした」
そして、不破さんは、「このように、スターリンのアジア『第二戦線』構想とその発動は、世界とアジアにはかりしれない損害をひきおこしたのです。 しかし、この構想の一環として強行された日本共産党への干渉攻撃が、日本の運動のなかに、スターリンの覇権主義、専制主義に対する徹底した批判者を生む転機となったことは、歴史の弁証法というべきでしょう」と述べています。(以上「前衛」7月号、215~217頁)