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宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

”10月革命の成果の真っ向からの否定”独ソ不可侵条約・秘密議定書。「スターリン秘史 第10章」

2013年10月06日 | 綱領関連

 「スターリン秘史 巨悪の成立と展開」第10章では、ヒトラー・ドイツとソ連のスターリンが締結した「独ソ不可侵条約」と「秘密追加議定書」が全文掲載されています。
 時は1939年8月23日、「ドイツは、独ソ不可侵条約の調印から9日後の9月1日早朝、宣戦の予告もなしにポーランド攻撃を開始しました。 9月3日、イギリスとフランスは、ポーランドに対する保障義務をまもって参戦、第2次世界大戦が現実のものとなりました」(「前衛」220p~221p)

 不破さんは、「独ソ不可侵条約」と「秘密追加議定書」の締結にいたる経過や内容を、読者がドキュメンタリー映画をみているようなに解き明かしてくれています。
「条約」や「議定書」の全文は本書を拝読していただきたいと思いますが、特に、「秘密追加議定書」に出てくる地名、地域についても、地図入りで丁寧な解説がされていますので大変わかりやすくなっています。

 ドイツとソ連が取り交わした「秘密議定書」とはどんな内容のものだったのでしょうか。
以下、不破さんの「解説」を紹介します。

 「強国のあいだの勢力圏分割の秘密条約は、第1次世界大戦に先行した時期にも、帝国主義者の世界ではあたり前のこととしておこなわれてきましたが、2つの大国が、独立国家が6カ国も存在するこれだけの広大な地域を対象に、勢力圏の分割を図る秘密条約を結んだというのは、帝国主義時代の歴史にも先例をみないものです。
-中略ー 実質の内容からいえば、秘密議定書は、不可侵条約の補足でも、『追加』でもなく、本条約で決められた独ソの新しい政治同盟の本質的内容ーー 2つの覇権主義国家、凶悪で貧浴な2人の強盗の政治同盟という性格を、端的に表現したものだったのです」(「前誌]212p)(注:6カ国とは、北からフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ルーマニア)

 そして、不破さんは、世界史上例のない、ヒトラーとスターリンの「勢力圏分割協定」を厳しく告発した上で、レーニンの下でのソ連が取った領土政策を対比しています。

 [1917年の10月革命で革命的社会主義の権力がロシアに打ち立てられた時、新しい権力が外交面でまずおこなった最初の革命的措置が、ツァーリズムが結んだ秘密条約の公表でした。
 その措置は、帝国主義の世界全体を震撼させました。 -中略ー 秘密条約を公表したトロツキ―は、、『秘密外交の廃止は、公正で人々に受け入れられる真に民主的な外交政策の第1条件』であると宣言しました。 -中略ー アメリカの歴史家A・J・メイアは、その著書『ウィルソン対レーニン』(1983年、日本語訳 岩波現代選書 Ⅰ、Ⅱ)の中で、秘密条約を公表したソビエト政府の外交行動が、同政府の『領土併合反対』、『民族自決権確立』のよびかけに重なって、イギリスやフランスの戦争目的改定運動を励まし、またアメリカの大統領ウィルソンが発表した14原則にも深い影響を与えたことを~明らかにしています」(「同誌」213p~214p)

 そして、「スターリンは、22年前、レーニンが指導した時代に、ソビエト政権によって、終止符がうたれた『秘密条約』外交を、もっとも邪悪な帝国主義者であるヒトラー・ドイツとのあいだで復活させ、多くの他国民の運命を2つの強国が意のままに料理するという邪悪な内容をその秘密条約に盛り込んだのです。 これは、まさしくロシア10月革命が国際政治に刻み込んだ最大の成果を真っ向から否定するものでした」と怒りを感じさせられる言葉で断罪しています。

 

 

 

 

 

 


ヒトラーはスターリンの変質を知っていた。「スターリン秘史 巨悪の成立と展開=第9章」を読む

2013年09月12日 | 綱領関連

 「第9章」は、「1938年9月29日、ミュンヘンから世界に衝撃が走りました。~イギリスとフランスが、ヒトラーの要求を丸のみし、チェコスロバキアの領土ズデーテンの対ドイツ割譲を認めたのです。当のチェコスロバキア政府は意見を求められることさえなく」。この緊急事態に対応すべく、ディミトロフとコミンテルン書記局との緊迫した電報のやりとりが紹介されています。しかし、「スターリンからなんの指示もなんの助言もこないのは、なぜだろうかーー」(「前衛10月号」208頁)

 「第9章」の中でも、不破さんの「新しい史実」の解明や推論が躍動的に展開されています。そうした中で、私が特に刺激的に受け止めたことは、「ヒトラーがスターリンの変質を知っていた」ということでした。スターリンの「大テロル」に対しての、不破さんの、「ドイツ側が、もちだされた『ドイツ・ファシストとトロツキーらとの約束事』が事実無根であることを指摘すれば、スターリンのシナリオは無残に崩壊せざるを得ない性格をもっていました。しかし、ドイツ側は、この問題で最後まで沈黙を守ったのです。その点では、ヒトラー・ドイツは、スターリンノの『大テロル』のなによりの援護者となったのでした」

 そして、不破さんの分析は続きます、「おそらくヒトラーは、スターリンの『大テロル』の内実を知りうる立場にあっただけに、スターリン治下のソ連が、革命とも社会主義とも無縁な専制国家となりつつあることを興味深く観察し、そこから対ソ連政策のさまざまな可能な選択肢を考慮しはじめていたのではないでしょうか」(同誌、210頁)

 不破さんは、こうした分析・解明の根拠のひとつに、次の外交文書を紹介しています。「1939年4月から41年6月のドイツのソ連攻撃まで、2年2カ月にわたるドイツ=ソ連両国の外交交渉について、ドイツ側が記録した外交文書を収録した『ナチ=ソビエト関係 1939~1941年』です」(アメリカ国務省が1948年1月に発表したもので、同年、読売新聞社から、邦訳され、刊行された)

 1939年3月10日(同月21日まで)、ソ連共産党は第18回党大会を開催しました。その年の5月、「ドイツのりッべントロップ外相は、ベルリンに帰っていた駐ソ大使シューレンブルクを呼んで、『共産主義はもはやソ連には存在しない。コミンテルンはいまや、ソ連の対外政策の重要な要素ではなくなった。したがって独ソ間にはイデオロギー上の障害はない』というソ連観をのべた」(同誌、214頁)ことが明らかにされています・

 この年の8月31日、ソ連最高会議に、モロトフが独ソ不可侵条約の締結ついて報告。その内容は、「帝国主義、覇権主義の2匹の狼が、6カ国にわたる他国の領土の分け取りを取り決めた近代史にも例を見ないあからさまな略奪条約であり、それを締結した行為こそは、スターリンが覇権主義的な領土拡大の道に公然と足を踏み出した第1歩にほかならなかった」(同誌、231頁)のです。

 


スターリン秘史ー第8章、スターリン怒る、「中国。西安事変と抗日統一戦線」

2013年08月12日 | 綱領関連

 「ディミトロフ日記」、1936年12月14日ー「夜遅く、12時にスターリンから電話。『中国のこの事態は、君たちが承認したものか?(-違います!)これはだれにせよ、いまおこないうる日本への最大の奉仕だ(-われわれもまた、この事件をそう見ています!)

 不破さんは、ここでスターリンを激しい怒りに駆り立てた中国の事件、”有名な西安事変”について、解明していきます。「スターリンの怒りがここまで爆発したのはなぜか。この疑問を解こうと、ディミトロフ『日記』を起点に、当時のスターリン、中国共産党、コミンテルンの三者の関係を歴史的に読み解いてゆくと、そこには、自分の国家戦略を最優先において、中国革命や中国共産党の状況など意に介しないスターリンの大国主義と、中国共産党自身の統一戦線政策が転換期を迎えつつあったことが絡み合って、スターリンのこの爆発的な怒りを引き起こしたことがわかります」と解明にあたっての観点を述べています。そして、歴史のドラマを判りやすくを読み取ることができる記述になっていることに感銘しました。

 特に、「西安事変、その経過と結末」(「前衛」誌、9月号ー205頁~214頁)は、十分に読み応えのある内容です。「西安事変」とは、「1936年12月、東北軍が中国共産党攻撃の指示に従わないのを怒った蒋介石が、命令を執行させるために、東北軍の司令部が置かれた西安に出かけたところ、逆に張学良に逮捕・監禁されてしまった」事件のことです。(「前衛」誌、9月号ー190頁)

 

 

 


スターリン秘史ー第7章フランス・スペイン・中国(上)-統一戦線運動へのスターリンの介入を解明

2013年07月31日 | 綱領関連

 不破さんの「前衛」誌連載「ス ターリン秘史 巨悪の成立と展開-第7章フランス・スペイン・中国(上)」を読みました。「1930年代後半に、統一戦線戦術の具体化が特別に重要な意義をもったのは、フランス、スペイン、中国の三国の運動でした」(「前衛」8月号193頁)

 「スターリンは、すでにみたように、社会主義や革命の事業とは無縁な専制主義、覇権主義の巨悪への変貌を決定的にしていました。
 ですから、これらの国々の運動へのスターリンの介入は、表面的には統一戦線政策の適用だとされ、必要な時には、そういう用語を使って説明されましたが、その内容を現実に支配していたのは、ソ連の国家的利害や外交戦略であり、とくにスペインの場合には、軍事援助を通じてスペインを『衛星国』化しようとする覇権主義的思惑が早くも姿を現してきました」(同前、194頁)

 今号では、ほとんどが、スペインの人民戦線政府の成立とフランコの反乱、スターリン・ソ連の人民戦線政府への介入を歴史的事実に基づいて検証されています。
まさに、生きた歴史のドラマを見ているようでした。
是非、多くの方にお読みいただきたいと思いました。

 1939年3月28日マドリード陥落。同年8月24日、ソ連・ドイツ不可侵条約公表。「この日を転換点にして、ディミトロフもコミンテルンも、つい前の日までその空気を呼吸してきた反ファシズムの世界から、まったく異質な親ファシズム、より率直・正確に言えばファシズムとの同盟の世界に、なんと事前の準備も心構えもなしに、いきなり投げ込まれることになりました。(中略)

 しかし、スターリンの方は、スペイン内戦への干渉の経験から将来の活動のための重大な教訓を引き出し、きわめて意義ある成果を手にすることができました。
 それは、他国の政権の指導権を奪い、その国をソ連の『衛星国』化するためには、どんな手段が必要であり、また有効であるかという点での経験と教訓です。
 スペイン内戦へのソ連の介入は、第二次世界大戦後の東ヨーロッパの『衛星国』化戦略にとって、最大の実験場を提供するものとなったのでした」(同前、231頁)

 こうした、歴史の事実に基づく「解明」は、科学的社会主義の理論活動の歴史のなかでは、初めてのことではないでしょうか。

今後の不破さんの論究に期待が膨らんでいます。

 


比例515万票、5議席と選挙区3議席の獲得の綱領的意義について

2013年07月24日 | 綱領関連

 2010年7月の参議院選挙、「日本共産党は、比例代表選挙で改選4議席から3議席に後退し、得票数では3年前の440万票(得票率7.48%)から、356万票(6.1%)に後退しました」(常任幹部会声明)

そして、「私たちは、今回の選挙結果を重く受け止めています。国政選挙での巻き返しにむけ、本格的な態勢構築をはかります。
 党綱領と大会決定にたちかえり、今回の政治論戦、組織活動などあらゆる面で、どこにただすべき問題点があるか、前進のために何が必要かについて、党内外のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討を行う決意です」(同前)と国民の期待にこたえ、国政選挙で前進するために党活動全体の根本的な再検討を決意しました。

 第25回党大会決議(2010年1月)は、綱領学習について、「前大会決定(2006年1月)は、『党づくりの第1義的優先課題』としてとりくむことを強くよびかけた。
 しかし、この課題では、抜本的打開がはかられず、読了党員はなお4割程度にとどまっている」
「第25回大会期の一大課題として、綱領学習と綱領読了のとりくみを抜本的に強める」ことを決定しました。この過程でたたかわれた最初の国政選挙が同年7月の参議院選挙でした。

 2013年7月の「参議院選挙の結果について」の常任幹部会声明は、「今回の結果は、この数年来とりくんできた党員拡大を根幹とする党勢拡大の運動、『綱領・古典の連続教室』、職場支部や青年・学生分野での活動強化のためのとりくみなど、強く大きな党をつくる努力が第1歩ではありますが実を結んだものです」そして、「同時に、情勢にふさわしい党づくりという点では、さらに大きな探求と努力が求められます」と強調しています。

 今日の「朝日」新聞の、「2013参院選ー大きいことはいいことか」の中で、中沢孝夫福井県立大学特任教授は、「共産党が今回、票を伸ばしたのは、長い歴史の中で、『決して政権与党にくみしない』というコアに対する信頼が培われ、批判票の受け皿として機能したからです」と語っています。

 安倍政権の暴走政治に対決すると同時に、綱領に掲げた日本改革のビジョンを具体化し、発展させ、国会内外の共同を広げることに全力を尽くすことが求められていると強く感じています。

 

 

 

 


スターリン秘史ー第6章、「巨悪への画期。変質の理論面での特徴」を読んで(「前衛」7月号)

2013年06月08日 | 綱領関連

 スターリン秘史・・・・・不破さんの調査、研究、分析力の深さ、広さに感動しながら一気に読みました。
第6章は、スターリンが1938年に発行した「ソ連共産党(ボ)小史」の分析が重要な構成になっていますが、この「小史」との不破さんの10代の頃の出会いなども「補注書き」されていて、リアリティーを感じました。全体については、是非多くの方々にお読みいただきたいと思います。

 私は、第6章の最終節、「5、「大テロル」後の世界の共産主義運動」のなかで、不破さんが提起した、4つの角度、どれもが重要なものですが、そのうちの第3について、紹介し、若干の感想を述べてみたいと思います。
「第3。各国共産党の党員レベルでいうと、スターリンの影響力は、圧倒的にスターリンの理論と政治路線への信頼でした。だから、スターリンは、いつも、自分の政策と行動を、科学的社会主義の言葉をもって飾らなければならなかったし、モスクワをマルクスとレーニンの理論の国際的な発信地としなければなりませんでした。 マルクスの理論にスターリン的修正を加える場合にも、マルクスの理論の重要命題を否定するのではなく、現代的な発展と称して勝手な追加をするとか、時代的に古くなったという理由でしまいこむなどの手法によらざるをえませんでした。

 だから、自分自身は社会主義や革命に無縁の存在となっても、世界の共産党と共産党員から社会主義と革命の精神を消すことはできなかったのです」と指摘し、「反ファシズム統一戦線の時期や第2次世界大戦における反ファシズム戦争の時期に、世界各国で多くの共産党員が(スターリンが支配するソ連を含めて)社会主義と革命への情熱を燃やして決死的な闘争に立ったのは、そのことの表れでした」と評しています。

 戦後もスターリンとその後継者達の「覇権主義、大国主義」との困難なたたかいが続きました。
しかし、「社会主義とも革命とも無縁な専制主義、覇権主義の『巨悪』に変貌した」スターリンも『科学的主義の生命力』までは奪うことはできなかったのです。
 その「生命力を発揮」したたたかいの輪のなかに、日本共産党の先輩達がいたのです。

6月9日付「赤旗日曜版」での対談記事で、浜 矩子同志社大学教授が、小池 晃副委員長に「共産党の頑張りどころ、『本領発揮の場面』のだと思いますよ」と激励してくれています。
うれしいかぎりです。


スターリン秘史―大テロル(下)「何を目的としたのか」(第5章)を読む

2013年05月15日 | 綱領関連

 「何十万、あるいは百万単位にも及ぶ共産主義者を抹殺しなければならなかった本当の理由はどこにあったのか」 不破さんは、「答えは、スターリン専決の専制的な独裁体制が確立したことです」 と述べています。そして、「スターリン一人が独断で決定すれば、どんな政策転換も自由にできる、こういう体制が『大テロル』を通じて、つくりあげられたのでした。ここに、スターリンが『大テロル』という空前の蛮行を通じて追及した最大の目的があったのでした」と断言しています。

 さらに、不破さんは、「スターリンが必要としたのは、ソ連共産党やコミンテルンと加盟諸党を、自分がどんな行動や政策をとろうが、それが社会主義、共産主義の事業の任務だと確信して無条件で支持する、そういう専制独裁の体制でした」と分析し、そのために、「世代の断絶が強行された」と解明しました。そのことを実感させる数字を不破さん次のように紹介しています。

 「『大テロル』終結の翌年1939年2月に、ソ連共産党の第18回大会が開かれました。その大会代議員の入党年月を代議員名簿から調べた研究者がいます。それによると、1570人の代議員のうち、10月革命以前に入党した人は、わずか34人、わずか2%しかいなかったとのことです。革命後、20年たった時点で、革命闘争の経験者は、党内からほとんど一掃されてしまったのです」 そして、覇権主義的領土政策の障害を除去するという特別の目的についても強調しています。

 不破さんは、「スターリンの邪悪な影響を、科学的社会主義の世界から根絶するためには、スターリンの覇権主義が世界の共産主義運動と世界の政治に及ぼした害悪を、歴史の事実にもづいて全面的に解明することが、重要になっています」(不破氏著『歴史から学ぶ』より)と意欲を語っています。