じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

教師の権威

2008-01-17 23:49:25 | 教育
★ 教師の権威がこれほどまでに失われた時代があっただろうか。

★ 中学生が「教師いじめ」のありさまを嬉々として話している様子を見た。授業風景を想像し、公立中学の先生に同情する。「教師の力量不足」といった常套句では解決できない背景があるようだ。

★ 彼らのターゲットとなるのは女性教諭や新人教諭。このあたりは生徒同士のいじめの構造と似通っていて、「弱者」がいけにえとされる。

★ 「教師いじめ」の形態は授業妨害、教師への挑発が主なものだ。怒ったり、慌てふためく教師の姿を見て彼らは喜ぶ。まるで悪魔のような所業だ。生徒たちはふざけることによってストレスの発散をしているようでもあるし、仲間内で見栄を張っているようでもある。自分を「おとしめる」ことによって、自虐的な快楽に浸っているようなところもある。

★ 甘えもあるのだろう。突っ張るといっても姑息なことしかできず、子どものダダにも似ている。表現力の未熟さ、自己抑制の未熟さもある。

★ しかし、ターゲットを選んでいるところなどは実に狡猾だ。いじめが生徒の連携によって行われているところをみると、生徒集団の歪みも垣間見える。

★ 行政機関は高学歴化など教師の専門性を高めることによって、教師の権威を回復しようとしているが、生徒たちの様子を見ていると、そう簡単なことではなさそうだ。背景には、権威を軽視する社会全体の風潮があるし、公教育という営みが「サービス業」になっている現状がある。そしてそれが「売る者」と「買う者」とが納得して成立している商品(教育サービス)ならそれはそれでよいのだろうが、どうも行政側の片想いのように思えてならない。

★ 社会が変容していく中で、公教育が何であるのか、明確な答えが見えにくくなっている。国としてどれほど明確な答えが出せているのだろうか。この曖昧さの矢面に教師が立たされている現状を感じる。

★ 一方で「権威」を求められ、専門性だ、力量だと迫られ、他方で常にマスコミからの批判や親の個別利害に振り回される。精神疾患で退職したり、休職する教師が増えるのは当然のことであろう。

★ 戦前の教師の権威は国家の権威の体現であった。しかし、民主主義国家において戦前のような国家主義に戻ることは望ましくない。では、教師の権威は何を背景として確立すればよいのだろうか。

★ それとも教師の権威を否定して成立する教育のあり方がありうるのだろうか。

★ 権威があってこその反抗であり、抵抗であるともいえる。アナーキーな状態で教授ー学習といった営みが実現できるかは疑問だ。

★ 公教育とは何か、学校とは何だろうか。教師の権威の失墜が、知識や文化の軽視につながるのではないかと危惧するばかりだ。

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