年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<39>両国橋

2010-11-18 | フォトエッセイ&短歌
 防災用に確保された橋のたもとの広小路(火除地=ひよけち)は、原則的には空地だったが、火除地の機能を損なわない範囲内で公私に渡って利用が許された。都市の有効土地利用である。
 幕府が薬園や馬場などに使用した火除地もあるが、なんと言っても町人の世界である。露店・見世物小屋・芝居小屋・水茶屋・料理屋が広小路の周辺や川端に並び一大歓楽街が出来上がった。特に川開きから始まる夏の両国橋周辺の賑わいはさながらラッシュアワーなみで、その混雑の様子が江戸っ子の話題になったのだろう。浮世絵の題材にしばしば登場している。
 隅田川の堤防は整備され散策路(テラス)となっている。そのコンクリートの壁面に隅田川の浮世絵が掲示されている。

<隅田川テラスギャラリーから。「江戸両国橋夕涼大花火之図」拡大>

 隅田川の両国橋と言えば納涼・花火の打ち上げ。河岸の桟敷、屋形船や屋根船、橋上にひしめく見物人など夏の最大のイベントである。
 享保16年は西日本を襲った蝗害による飢饉、疫病による多数の死者、この事態を重くみた時の将軍吉宗が、陰暦の5月28日に、慰霊と悪病退散を祈って隅田川で水神祭を挙行した。その際に両国で死者の冥福を祈る「川施餓鬼」を目的に川開きが行われ、厄払いのために花火を打ち上げたと云われている。華麗に夜空を彩る花火も、もとは鎮魂のためのものだった。これが、今にも続く両国の花火大会である。
    
<左端は、歌川広重の『名所江戸百景』。両国の納涼花火の打ち上げの図>

 隅田川は江戸の人々にとって舟遊びなど娯楽の舞台であると同時に、重要な物資運搬・交通の手段でもあった。現在も首都東京の交通の動脈であることには変わらない。残念な事に空を奪い川を奪い岸辺を奪いと自然破壊の象徴である首都高速道路に覆われている隅田川。
 上に伸びているのが、首都高6号向島線で左に伸びるのが7号小松川線で江戸川区に至り京葉道路に接続している。

<隅田川の上に架かる首都高の両国ジャンクション。左が下流で新大橋に至る>