年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<38>両国広小路

2010-11-13 | フォトエッセイ&短歌
 ようやく隅田川も江戸時代一番のにぎわいを見せた両国橋界隈に来ているが、中心となるのが両国橋である。
 防衛の観点から橋を嫌った幕府ではあったが、一ケ所ぐらいはと物資搬入などを考慮して市中から遠く離れた千住大橋に架橋した。ところが1657年の明暦の大火の際に「橋が無く逃げ場を失った江戸市民が火勢にのまれ、多数の死傷者(全体で約10万人)を出してしまう。
 老中酒井忠勝は防火・防災の目的から架橋を決断するが、この惨事を教訓に橋の袂に防火用の空地(火除地=ひよけち)を設置したのだ。後に広小路と呼ばれ13ヶ所が数えられている。上野広小路はいまでも地名として残っている。ただし橋の位置は現在よりも下流側であったらしい。

<日本橋側の両国橋の門柱と袖石。手前の靖国通りに両国広小路の碑がある>

 こうして隅田川の2番目に架けられた橋、江戸市中では始めての橋は1659年頃には完成している。長さ94間、幅4間の木の橋は大土木事業で「大橋」と名付けられた。
 江戸時代、現在の吾妻橋辺りの下流は大川(おおかわ)と呼ばれていた。そのために橋も「大橋」と名付けられたが、西側の武蔵国と東側の下総国の二国を結ぶ橋として両国橋と俗称された。その後、下流に新大橋が架橋されたのを機会に両国橋を正式な名称にしたという。

<葛飾北斎の「両国橋夕陽見」。両国橋は弧を描きその先に富士が見える>

 江戸時代には橋を渡るのに(通行料)渡り賃を取られた。渡し船の渡し賃(船賃)が2文だったことから、橋渡りも2文だったそうだ。これを徴集するのが橋の袂に設けられた橋番所。
 現在の両国橋は、震災復興橋梁として昭和7年に架設された3スパン鋼製の桁橋である。総工費987500円。橋桁部分は大きく曲線を描きアーチ橋のようにも見える。全長164.5m全幅24m。東京都選定歴史的建造物に選定されている。

<両国橋は補修工事中で航行安全のためにアーチ部分に朱を塗装している>

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