年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<35>牢屋敷

2010-11-01 | フォトエッセイ&短歌
 日比谷線小伝馬町駅一帯は伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)のあった場所である。牢屋敷と言っても、江戸時代には懲役や禁固という処罰が原則としてなかったの現在の刑務所ではなく拘置所(未決囚の収容所)に近い施設である。
 取り調べを受け、裁きが終わり、所払いとか遠島ということになればその場所に送られる。死刑の裁きが出ると、牢屋敷の一角で斬首刑が執行された。因みに現在でも死刑囚は刑務所ではなく拘置所に留置され絞首刑を待っているのである。
 「大物」になると見せしめのために伝馬町牢屋敷から市中引き回しの末に、品川鈴が森や千住小塚が原で処刑され獄門(さらし首)とされた。

<大安楽寺の伝馬町牢屋敷跡地の碑。線香の煙が絶えることなくのぼる>」

 伝馬町牢屋敷は明治8年に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。牢屋敷跡は、たたりを怖れて誰も住まず「牢屋が原」と呼ばれ荒れ果てていた。
 そこで、牢屋敷でも最も忌まわしい、斬首刑を行っていた処刑場跡に「大安楽寺」を建立し、霊を慰め市街化を進めた。明治の財界の大物、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進したので「大」「安」楽寺と名付けたそうな。明治15年の事である。

<吉田松陰なども伝馬町牢屋敷で斬首。十思公園の一郭にある処刑場所>

 小伝馬町を過ぎると馬喰町(ばくろちょう)である。江戸通りに面する横町は洋品雑貨から繊維製品卸売業者の集中する問屋街である。
 江戸時代、この付近は日光道中・奥州街道の出発点にあたり、馬市(いち)が立ち、馬喰=博労(ばくろう)や馬薬師(うまくすし)(馬医)が多くいた所であったことが地名の由来とされる。すでに江戸時代の後半には馬喰町に62軒の問屋登録記録があり、問屋街として発展しつつあった。
 各地から訪れる仕入れ、売り込みの商人たちの出入りも盛んで、大小の旅籠が集中し、江戸一番の旅館街としても活況を呈したと言われる。

<小間物を中心にした東京一の問屋街。道路に溢れた卸物が活気を呼んでいる>