年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<36>関東郡代

2010-11-05 | フォトエッセイ&短歌
 日本橋馬喰町から靖国通りを越えると神田川に掛かる浅草橋南詰めの交番である。その交番の脇に小さな植え込みがあり郡代官屋敷(ぐんだいやしき)跡の碑が建っている。
 江戸に拠点を定めた徳川家康は関東一帯から東海方面の関八州の天領(直轄地)に代官(陣屋)を置いて支配させた。関八州の代官を統括したのが関東郡代(かんとうぐんだい)で行政・裁判・年貢徴収・鷹場の管理なども取り仕切らせ、警察権も統括させるなど絶大な権限を任せた。
 1642(寛永19)年、伊奈忠治(ただはる)が、河川の改修や築堤を命ぜられ時に関東郡代が制度として成立したのであろうといわれる。TVドラマの舞台になる関八州見廻役という名称が使われるようになるのはずっとあとの事である。

<関東郡代の屋敷地跡。1806年、焼失後は馬喰町御用屋敷と改称された>

 浅草橋からビルに挟ませた運河のような神田川をみる。更に神田川を上ると小石川御門があって飯田橋辺りで江戸城の外堀に繋がっている。その後、神田川は高田馬場・西新宿・高井戸を経て井の頭公園の池に達する。
 南こうせつとかぐや姫の♪♪貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして♪♪の『神田川』は新宿区西早稲田あたりを歌ったものだそうだ。

<井の頭池を水源とする神田川は全長約25km、浅草橋をへて隅田川へと注ぐ>

 浅草橋を神田川を見下ろしながら渡ると台東区浅草橋1丁目で「浅草見附」跡碑が神田川沿いの船宿を眺めている。赤坂見附は有名である。「見附」は城を防御する最も外側の城門のことである。江戸幕府は江戸城の警護のために主要交通路の重要な拠点に三十六見附を築いて、首都の防備を固めた。
 虎御門・数寄屋橋御門・四ツ谷御門・市ヶ谷御門など外堀に沿って造られているが、これらの砦で戦火を交える事はなかった。江戸は天下太平の惰眠をむさぼった。

<家康がどれほど危機管理をつのらせ、防備を徹底させたのかがうかがわれる>