年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<37>柳橋

2010-11-09 | フォトエッセイ&短歌
 神田川が隅田川に流れ込む河口一帯が柳橋である。柳橋は1630年、徳川幕府が米蔵「浅草御蔵」(あさくさおくら)を設置した地域である。米蔵は旗本に給料として現物支給するため全国から運んだ米(農民の収めた年貢米)を蓄えた所である。
 給料である米を春、夏、冬の三回にわけて支給したが、旗本が米俵を担いで帰るわけではない。蔵の付近(蔵前)の札差と呼ばれた特権商人が彼等の米を現金化し手数料をピンハネして旗本に渡した。内職する貧窮旗本の話は有名である。彼等は札差商人から次回の米を抵当に高い利息で「給金」を前借りした。10年先の米まで抵当に入っている旗本も珍しくはなかったと言う。
 蔵前の札差商人は絶対に取りっぱぐれのない旗本の給料を手中に収め豪商に伸し上がっていく。

<ビルの間から隅田川に流れ込んでくる神田川の河口。前方の橋が柳橋>

 柳橋には豪商と呼ばれる札差や役人、米商人あるいは各種の商人などが集まって来て賑わったのだろう。浅草旅籠町が生まれ江戸前の料亭が軒を連ね歓楽街としても栄えた。船遊び客の船宿が軒灯を連ね柳橋芸妓が色を添え、江戸の後期には新橋と並ぶ花街として活況を呈した。柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと物語で語られている。
 現在、その面影はないが『浅草橋』から『柳橋』にかけてたくさんの屋形船や釣り舟が両岸に繋留されており、船宿の名残を留めている。

<柳橋の袂で屋形船の営業する船宿:小松屋。護岸のコンクリ塀に載っている>
            
 幕府は江戸城の防衛と市内の治安のため、あるいは財政の問題もあって橋を嫌った。柳橋が完成したのも浅草御蔵(あさくさおくら)の成立後40年も経った1698年である。隅田川へ流れ込む手前に架けられたので「川口出口の橋」と呼ばれた。
 吉原通いや深川への渡航の猪牙〔ちょきぶね〕はここから出たため、船宿や料理屋が遊興の拠点として賑わった。辰巳芸者で有名な深川花街が寛政・天保の改革で弾圧を受け、芸者たちが次第にこちらへ移ってきてから本格的な花街の成立となった。

<昭和4年完成の風情も色気もない柳橋。永代橋のデザインを取り入れる>