年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<40>無縁寺回向院

2010-11-21 | フォトエッセイ&短歌
 江戸最盛期、両国橋は一日に4~5万人の利用者があったのではないかと推定されている。平賀源内は『根南志具佐(ねなしぐさ)』の中で両国橋の賑わいを「世界の雲はここの群集の舞いあげる塵からできているように見える」とまで表現した。     
 <蛇足>この両国橋を渡れなかった集団がいた。時は元禄15年12月14日、忠臣蔵の47士は本所の吉良屋敷で上野介を討ち泉岳寺に引き上げる。ところが、正面に江戸城の見える両国橋を渡るのは如何なものかと断わられる。幕府の裁定に対する反逆罪、赤穂の浪人は江戸市中を通り抜けるのはまかりならん、というわけだ。一行は万年橋を渡り、永代橋を渡り築地の旧浅野屋敷を振り返りつつ主君の眠る泉岳寺へと向かったのだそうだ。

<薄暮の両国橋の歩道。疎らな歩行者が川面の風を受けて急ぎ足で渡っていく>

 両国橋を渡ると両国で右側にビルに挟まれた、浄土宗 国豊山 無縁寺回向院(むえんじ えこういん)がある。「十万の、亡者がうかぶ 回向院」(柳多留)
 1657(明暦3)年に起きた明暦の大火(振袖火事=ふりそでかじ)で市街の6割以上が焼土と化し、焼死者10万8千人の尊い人命が奪われた。身元や身寄りのわからない人々も多かった。将軍:徳川家綱はこの無縁仏を手厚く葬るようにと現在地に土地を与え大法要を執り行わせた。これが万人塚で回向院の歴史の始まりだ。その後、安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬したのだ。

<万霊供養塚(万人塚)の上に立つ聖観音。爽やかなイメージである>

 「勧進相撲」の名が示すように、寺社修復の費用を確保するために寺社の境内で開催された。その為、相撲の興行は寺社奉行が采配した。当初は深川八幡をはじめ各所の寺社を転々としたが、寛政年間頃に両国の回向院境内に定着した。
 そんな訳で、回向院には相撲・力士関係の石碑群が多数ある。1936(昭和11)年には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。

<国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある>