年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<32>新大橋建設

2010-10-18 | フォトエッセイ&短歌
 日本橋浜町から江東区新大橋にかかる橋が『新大橋』である。現在の新大橋は、昭和51年に架け替えられたもので、名橋といわれた新大橋の歴史や名声を汚さないようにデザインに力を入れたとある。が素人目にはシンプルで橋の持つ風情や存在感に迫るものがない。
 初代の新大橋は1693(元禄6)年に完成。『千住大橋』と『両国橋』の2橋では不便だと当時「大橋」と呼ばれていた両国橋の下流に3橋目がかけられた。ゆえに新大橋と命名された。こうして、江戸:隅田川に第三番目の『新大橋』が完成し、『千住大橋』『両国橋』の3橋が出現した。

<新大橋は中央に二本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で風情もなし>

 当時、橋の東詰に住んでいた松尾芭蕉は架設中の橋を見て『初雪や かけかかりたる 橋の上』と読んだ。完成した新大橋を渡って『ありがたや いただいて踏む はしの霜』とも読んでいる。
 しかし、江戸時代の橋は「木橋」であったため、破損、洪水による流出、火災による焼失を繰り返した。その回数は20回を超えたと言われる。幕府財政が苦しくなった享保年間、ついに幕府は橋の維持管理をあきらめ、橋の廃止を決めた。
 江戸っ子は怒った!民衆は嘆願を繰り返し、橋の維持管理の諸経費を町方が負担することを条件に、1744(永享元)年に新大橋の存続を認めさせたという。
        
<新大橋下のコンリートテラスに描かれている、芭蕉の橋を見上げている絵>

 町人たちは橋の維持・管理費の確保に知恵を絞った。橋詰で市場を開いたり、カンパなども集めたという。また「此橋の上においては、昼夜に限らず、往来の輩、やすらうべからず、商人・物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(橋を渡る者は、休んだりせず渡れ。商人も物乞いもとどまるな。荷車は一切通行禁止)」の高札も掲げられたという。
 重量オーバーによる橋の損壊や大惨事を起こした江戸時代の木橋の様子がうかがい知れる

<川や橋の惨事は昔も今も変わらない。新大橋の下にスタンバイする消防艇>


最新の画像もっと見る

コメントを投稿