年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川<33>あたけの橋

2010-10-22 | フォトエッセイ&短歌
 浮世絵師:歌川広重は名所江戸百景の中に新大橋を「大はしあたけの夕立」として描いている。当時、新大橋付近が俗に「あたけ」と呼ばれていた。
 「あたけ」は史上最大と言われる安宅丸(あたけまる)と呼ばれた船の名称からきている。1632(寛永9)年に徳川家光が向井 忠勝(むかい ただかつ)に命じて新造させた軍船形式の御座船(ござぶね=大名などが乗るための豪華船)、安宅丸の船蔵がっあったので新大橋の東岸を一帯を「あたけ」と呼んでいたのだ。
 絢爛豪華な巨船で実用性がなく将軍の権威を示す船であったが、幕政も安泰し、維持費用が掛かり過ぎるという理由でこの地で解体された。

<新大橋の河岸になる幕府の御船蔵跡。ここで御座船:安宅丸は解体される>

 江戸時代の「木橋」は洪水による流出や火災による焼失などを繰り返していた。明治45年には鉄橋に生まれ変わり、市電が通るようになり、災害にも打ち勝った。関東大震災の時に隅田川の橋がことごとく焼け落ちたが、唯一被災せず、避難の道を確保して多数の人命を救った。
 大震災の復興後、新大橋は「人助け橋(お助け橋)」と称される。橋の西詰にある浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」がある。

<浜町交番敷地裏の首都高向島線の下にある惨状を伝える「大震火災記念碑」

 有名な画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは浮世絵を愛した。そして『私の好きな日本人は、自らが花であるかのように自然にふるまう素朴な人々だ。相互の友情に支えられ、自然の中でつつましく生活している』とも言って、400点以上の浮世絵をコレクションした。
 特にゴッホが影響を受けたとされる歌川広重の「大はしあたけの夕立」(「雨中の大橋」)、彼はこれを模写するなどして印象派を創出したと言われる。
  
<広重の浮世絵:新大橋「大はしあたけの夕立」を模写したゴッホの作品>