年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

09'師走暦<4>広沢寺

2009-12-16 | フォトエッセイ&短歌
 岩場から少し下ると広沢寺は(こうたくじ)温泉のある広沢寺参道の入り口である。昔どこの村にもあった地蔵のたつ「里の辻」が見える。広沢寺の「里の辻」地蔵は「豆腐地蔵」の民話として親しまれている下向き地蔵である。
 『むかし、むかし、大山のふもとの七沢村に、一軒の豆腐(とうふ)屋がありました。雪の降る朝、主人が店をあけたところ、雪の上に山にむかって足跡がついていました。「朝早くから来た人もあるもんだ。すまぬことをしてしまった。豆腐を持っていってやるか」主人がその足跡をたどって行くと、広沢寺という寺の前の地蔵様の前で足跡は消えていました。
 「へんだなあ。地蔵様が豆腐を食べるわけはないのに…」と思いながら、豆腐を地蔵の前において帰ってきました。その夜、主人はふしぎな夢をみました。
 「ワシは及川村の寺におった地蔵だが、豆腐が大好きなのだが、及川村には、豆腐屋がないので豆腐を食べられなかった。長年つかえた寺じゃが、豆腐を食べたくて、この七沢村にやってきたのじゃ今朝の豆腐はとてもうまかった。これからも頼む。そのかわりにな、この村に入ってくる悪い病気を追い払はらってやるでの」と告げると消えてしまいました。
 その話は、たちまち村中に伝わり、村人は、この地蔵を「豆腐地蔵」と呼び、毎日豆腐をあげてお参りしました。村には、悪い病気もはやらずみんな長生きをしたということです』

<清流に洗われる大山豆腐は豆腐のブランド。見下ろす地蔵の表情は穏やか>

 地蔵の前方に広沢寺がある。寺の歴史は不明であるが、室町時代末の七沢城落城のおりに、関東管領(かんれい)上杉定正(さだまさ)の妻鶴姫が自害した所といわれているから古い歴史があるのだろう。
 上杉定正といえば太田道灌(おおたどうかん)を伊勢原市(相模糟屋:さがみかすや)の館で謀殺したため多くの家臣を失うというエピソードの持ち主である。

<温泉名の由来となった広沢寺。千両万両の赤い実がたわわに冬を告げる>

 その寺前に玉翠楼(ぎょくすいろう)という広沢寺温泉の一軒宿の和風旅館がある。名物は丹沢名物のイノシシ鍋である。
 この温泉の特徴はPH10.3の強アルカリ性であることだ。これほどアルカリ性が強い温泉はめったにない。露天風呂のお湯は透明で、入ると肌がつるつるする。周りの竹林を見ながらお湯を楽しめる。洗い場の蛇口から出るお湯は特にぬるぬるしていて、湯船のお湯よりもアルカリ性が強いようだ。

<紅葉の浮かぶ露天風呂にゆっくり浸って、名物のイノシシ鍋で一杯!極楽>