年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

毛野国・足利の里

2008-12-19 | フォトエッセイ&短歌
 太田市を北上し渡良瀬川を越え下野国(しもつけのくに・栃木県)足利の里に入ると史跡足利学校が迎えてくれる。
 足利学校の詳細は定かではないが、関東管領(かんとうかんれい=関東一円を支配する大ボス)上杉憲実(うえすぎのりざね)が典籍を集め、学則を定め、寺領を寄進するなど学校を整備再興したとあるから創立はもっと古くなる。そして1530年~1590年頃に最盛期を迎え各地から学徒3500人が集う。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは「遠隔の地、坂東と称する所に大学あり。日本で最も大にして最も多くの学生を集めている」と本国に書き送っている。

<1549年11月5日付、ゴアの聖パウロ学院宛のザビエル書簡が述べている>

 大学といっても現在の学校とは全く違う。校長を庠主(しょうしゅ)と言い鎌倉円覚寺の快元(かいげん)を招いている。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入る。教育の中心は儒学であるが、易学・兵学・医学も盛んで卒業生はそれらの実践的な学問をもって戦国武将の知恵袋として仕えたという。
 従って学校のシンボルは孔子廟で教室に当たるのが方丈。生徒を集めて講義するという事は無く、自学自習であった。読めない字や意味の解らない語句などは紙に書いて、松の枝に結んでおくと、翌日、ふりがなや注釈がついて戻される。その松の木は字降松(かなふりまつ)としてその名残を伝えている。

<集団での講義はない。自学自習が原則で分からない事は字降松にどうぞ>

 足利学校の孔子廟(こうしびょう)は中国明代の聖廟を模したもので現存する孔子廟としては日本最古のもという事になっている。校門などにも一定の形があって、入徳門・学校門・杏壇門(きょうだんもん)となっている。「杏壇」とは、孔子が弟子たちに教えを説いたところで、杏(あんず)の木が植えられていたことに由来している。
 明治維新後、足利藩は足利学校を藩校として復興を図ったが、明治4年に足利県(栃木県)に移り、1872(明治5)年に廃校となった。

<孔子は時世の不合理から教育と著述に専念。学問の神様として聖堂に祀る>