年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

毛野国・埴輪が語る

2008-12-07 | フォトエッセイ&短歌
 4世紀ごろ大和王権による国家の形が出来あがり、東国にも支配の手が伸びてきたが、関東北部の大豪族:毛野氏は大和王権の支配に屈することを嫌って抵抗していた。「何をこしゃくな、東国の蝦夷め!」日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征物語の世界となる。
 結局、毛野国(けぬのくに)は大和政権に敗れ、上毛野(かみつけぬ)国と下毛野(しもつけぬ)国に分国される。後に上野国(こうずけのくに=現在の群馬県)・下野国(しもつけのくに=現在の栃木県)と呼称も変化し現代に至る。
 大和王権と一戦を交えた大豪族を裏付けるかのように群馬県太田市には全長210mに及ぶ東日本最大の前方後円墳(太田天神山古墳)がある。その付近には末裔たちの墓ででもあろうか田んぼの中から古墳が出土する。住宅が遠くに霞む水田のど真ん中のあちこちに散在する帆立貝式前方後円墳で「塚廻り古墳群」と呼ばれている。後円部に立つのは盾形埴輪(たてがたはにわ)・太刀形埴輪(たちがたはにわ)で武力保持を象徴している。

<忠実に復元整備された「塚廻り4号墳」。ホタテの形がハニワで画されている>

 前方後円墳といえば墳丘を連想するが、認識を変えなければならない。この「塚廻り古墳」は7基以上の古墳で構成されているが、田畑の耕作面下にあり、埴輪が304本も出土している(主軸は約30メートル)。しかも円筒・朝顔・家形・人物・武器・馬等々埴輪の百貨店である。
 古墳時代の後期、550年頃のものと推定されている。葬られたボスが生前、馬に跨って利根川と渡良瀬川流域の穀倉地帯を駆け抜けて行く姿が髣髴とする。遙かなり古代東国の黎明期である。

<前方部は祭り事の場である。祭礼儀式の終了後、ハニワで再現したのか>

 「塚廻り古墳群」から北西10㎞に標高235mの金山城址のある「太田のシンボル金山」が望まれる。山全体が城となっている中世の典型的な山城である。
 1469(文明元)年、岩松家純(いわまついえすみ)によって築城されたが、下剋上の時代、重臣横瀬(由良)氏が実質的な城主となって全盛期を迎える。上杉謙信や武田勝頼の猛攻撃にも落城する事なく難攻不落の山城として関東に覇をとなえた。発掘調査により、その全貌の解明が進み始め、復元整備が進んでいる。

<通路の正面を石積みで妨害。敵兵の前方視野をさえぎる工夫がされている>