年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

みちのく・関跡

2008-10-11 | フォトエッセイ&短歌
 国道4号線は、東京都中央区から青森県青森市へ至る一番長い国道である。那須高原が尽きる辺りが、栃木県と福島県の国境で「これより陸奥(みちのく)」の標識が立っている。江戸時代の白河藩のあった所で関東から東北の境界にもなっていて、自動車道が開通するまでは「オーウッ いよいよ北国だ~」という感じだった。
 この、「オーウッ」という感じは時代が遡ればさかのぼるほど強かった。古代社会に於いては夷狄の跋扈するあな恐ろしげな辺境。というのも朝廷の支配に従わない未開の地というわけだ。だからこの国境は極めて重要で地であったといえる。朝廷がここに「白河の関」を置いた意味が分かる。

<白河の関は念珠ヶ関(ねず)・勿来関(なこそ)とともに、奥州三関の一つ>

 「関」というと「箱根の関所」を連想するが『入り鉄砲に出女』を取り締まった江戸時代の「関所」ではない。大化の改新の頃から設置され、朝廷の支配に屈しない蝦夷討伐の前線基地、あるいは蝦夷の南下を防ぐ要塞といった軍事的拠点が「白河の関」であった。従って陸奥国を制圧し、みちのくを支配した段階で白河の関はその役割が終わった。
 しかし、軍勢を整えた征夷大将軍が生死の杯を交わして粛々と陸奥(みちのく)に出陣…、テナ事で都の貴族には殊の外「白河の関」に人気が集まったようである。能因法師の「みちのく」惚れは大変なもので「白河の関」の旅人となり、『都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関』の一首を書き送った。これが空前のヒット作となり、西行法師をはじめ一遍、宗祇など和歌や仏教で有名な文化人がこの地を陸続と訪れた。

 <空堀の曲輪の遺構が発掘された。堅牢の城塞のような建物が想定される>

 源義家、源義経もこの辺りの街道を使って陸奥(みちのく)に入ったとされている。しかしその後、陸羽街道の白坂越えルートがメインストリートになってこちらは忘れ去られ、白河の関は民間の伝承の中に消え去った。7~800年も経てばどこに何があったかなど分からなくなるが、歌に詠われる超ブランド名、天下太平の江戸時代に「白河の関」はどこか!の論争が起きる。
 そこで名君・松平定信が「ここでいいのだ!」と一喝して決まったのが、現在の地である。また、その一喝で決まったという記念碑があるのが面白い。それからすでに200有余年、しっかりと「白河の関」はここに根付いている。
    
<定信の一喝の石碑。その脇には大蛇のような藤が雰囲気をつくっている>







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