年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

足柄路・関所址

2008-10-18 | フォトエッセイ&短歌
 足柄峠は駿河国(静岡県)と相模国(神奈川県)の国境の峠である。奈良・平安の時代には東国と西国とを結ぶ官道(東海道)として整備され、足柄路(矢倉沢往還)とも呼ばれた。今日的に云えば国土交通省が管轄する1級国道のゲートにあたる。何しろ、足柄峠は「都文化圏」から坂東と称する「異民族文化圏」の境界の地と考えられていた。首都圏防衛の前線基地でもあるため、動静を把握する必要から899年に関所が置かれた。

<峠には何か旅情が漂う。関所跡という確証はないが風景として納まっている>

 899年、平安時代の中頃で藤原氏の貴族文化が花開く頃である。地方長官(国司)の肩書きが金で売買されるなど、地方政治が乱れはじめる。坂東では群盗が横行し、都に運ぶ貢納物(税)がたびたび強奪されたため、太政官府が「足柄の関」を設けたとある。
 効果は覿面(てきめん)群盗は一年足らずで鎮圧され、翌年には関が廃止されたが、その後も緊急時に足柄の関が度々再開された。
 鎮圧とあるから、いわゆる盗賊ではなく、都の権力に対抗する地域の土豪による武力反乱かと思われる。中央に反逆する「オラガ村のボス」として民衆には人気があったのであろうか。
    
<関所にある首塚供養塔。成敗された彼等は手厚く葬られたのであろうか>

 鎌倉時代にはすでに関跡も定かではなく、1221(承久3)年に没した飛鳥井雅光の「足柄の関を読める歌」には「足柄の山の関守古は有もやしけん跡だにもなし」(足柄の関は跡形もない)と詠われており、現在の史跡とされる場所かどうかは一切不明である。
 しかし、足柄峠は要害の地で、戦国時代には足柄城が築かれた。
小田原の北条氏康が厚木市の百姓に足柄城の普請の人足を出すよう命じた文書があるのでこの頃の築城と思われる。北条氏康・武田信玄・今川義元が「甲相駿三国同盟」を成立させた頃の緊迫した争乱の世である。

<足柄峠の頂上に展開する足柄城跡。晴天なら眼前に雄大な富士山なのだが>