年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

台場・静寂の島

2008-10-01 | フォトエッセイ&短歌
 林子平は幕府の海防策を『太平に鼓腹(こふく)する人』<太平の世に腹ツツミを打って楽しんでいる>と批判して処罰された。彼の提言を実践的に研究したのが江川英竜(えがわひでたつ)で砲台の不備と砲の不足を進言し、自ら反射炉(溶解炉)を造って鉄製の大砲製造にのり出した。
 江川英竜の仲間の渡辺崋山・高野長英らは「蛮社の獄」で処罰されたが、彼もまた逮捕の危機に見舞われた洋学者だった。日米和親条約が締結され「品川御台場」の工事が中止された翌年、1855年に彼は没した。江川謹製の精魂込めた砲がすでに使い物にならない旧式だった事や幕末も動乱期に入り砲台もろとも幕府がどうなったか知るよしもない。

<江戸湾に標準を合わせた青銅鋳造製の大砲台跡が行き交う船を眺めている>

 工事中の風雪やシケで海水が流れ込んで難渋した現場監督の日記が残っている。この時の民謡に『死んでしまおうか、お台場にゆこうか、死ぬにゅ増しだよ、お台場の土担ぎ』というのがある。難工事の厳しい仕事に労賃を弾んだ事が分かる。土ひと担ぎに銭一枚支払ったというが、それでも石工や土工不足に悩まされたという。
 台場の一廓に水溜まり程度の沼ある。少年が棒切れに凧糸を垂らしてザリガニを釣っている。赤くて爪がでかいぞ!

<潮騒のなかに歓声が上がる。やがて青年になり、沼の歴史を知るだろうか>

 巨額の費用を投じてつくった台場は、実際何か役に立ったのでしょうか。という疑問に応えている研究者の座談会の記事があった。
 政権の安定を考えると品川台場は非常に大きな意味があった。黒船来航で国民が動揺するが、こんな巨大な大砲が据えられている。心配することはない。対外的な軍事的な面ではなく、国内の治安という意味で大金を投下した「お台場」は意味を持っていた。露天砲台、丸見えの大砲だったが、幕府の権威を示すためにはそれで良かったのだと。
 ナルホドナ~。そう言えば、当時の品川美人浮世絵の背景に黒々と砲台が描かれているのがある。
  
<船着き場から陣屋に通じる塹壕跡。純白の仙人草がひっそりと咲ていた>