年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

切支丹屋敷

2008-04-08 | フォトエッセイ&短歌
 『自転車』という志賀直哉の作品の一節、「恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ」。志賀は切支丹屋敷が恐ろしかった訳ではなく、ブレーキがない自転車で切支丹坂を下ったのが、恐ろしかったと言っているのだが(少年直哉の頃の自転車にはブレーキがなかったのか…)。
 織田信長のキリシタン保護政策もあって信者75万人。恐れをなした為政者はキリシタン禁止令を出したが思うように徹底しない。江戸時代、鎖国禁教政策のさなか「島原の乱」が勃発し一気に徹底弾圧に踏み切った。
 宗門改(しゅうもんあらため:日本人たる者、必ず何処かの寺院に所属せよ)を行って、キリシタンをあぶり出して処罰した。この初代宗門改役(奉行)に任じられたのが井上筑後守政重で小石川茗荷谷の屋敷内に牢屋を設けた。切支丹を捕らえて審問し処刑する牢獄であった。人々はこの屋敷を切支丹牢獄屋敷とよんで恐れた。
 後日談がある。1708年、イタリアの宣教師シドッチは屋久島に潜入、逮捕されこの屋敷に拘束される。新井白石は彼を尋問し『西洋記聞』を著した。シドッチの供述は鎖国下の日本に国際的視野の一条の光を差し込ませたが、在牢5年目で牢死。

<残虐な弾圧史に語られる「八兵衛の:夜泣石」の悲しい伝説が語られている>

 大正から昭和に、それは「大正デモクラシーの余韻」と「満州侵略が本格化する軍国主義台頭」の狭間でもある。社会主義運動・労働運動はダイナミックに躍動していた。
 熊本から上京した貧窮の小作人の息子(徳永直)は小石川の博文館印刷所に植字工として勤務。操業短縮に反対し大争議を闘うが工場閉鎖と官憲の弾圧で敗れ、同僚1700人とともに解雇される。
 徳永直は、この争議を基に『太陽のない街』を執筆し、無名の一印刷労働者が書いたプロレタリア文学の傑作としてプロレタリア作家として独自の位置を占める。
 貧しい労働者長屋の様子を『太陽のない街』は描いている。 ~「谷底の街」は事実「太陽のない街」であった。千川どぶは、すっかり旧態を失って、無数の地べたにへばりついたようなトンネル長屋の突出しに、押し歪められて、台所の下を潜り、便所を繞り、塵埃と、コークスのカラと、空瓶や、襤褸や、紙屑で川幅を失い、洪水によって、やっとその存在を示しているに過ぎなかった~。

<『太陽のない街』の舞台となった共同印刷株式会社。現在はその面影は無し>

 都営三田線:白山駅の近くに白山神社ある。将軍家の白山御殿の屋敷神であったが。一時、歯痛に効く流行神として賑わったとか…。ここから、共同印刷を通り切支丹屋敷に向かう。

<境内には遅い桃が咲き、春の陽がゆらゆらと射す。後は東洋大学の校舎>


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