年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

探照灯の春

2008-04-13 | フォトエッセイ&短歌
 山脈が続いた川崎の「山岳地帯」も小田急多摩線の乗り入れによって一気に開発されたが、古沢地区は「市街化調整区域」に指定され、閑静な住宅と長閑な里山が残る。田舎風の田園風景の中に時代を思わせる家屋や竹林、一面に広がる畑に点景する農作業なども見ることが出来る。
 谷内六郎の絵から切り取った、そんな風景の中に「平和の碑」があった。「第二次世界大戦時の末期(1944年)、海抜70mの地点に米軍の爆撃機を照らし出すための探照灯(サーチライト)基地が建設され、その基地跡の記念碑」だという。
 黒川照空隊陣地の様子は不明だが、狛江に<照空燈(夜間飛来する敵機を地上から照らし出す兵器)を操作する小部隊>が駐屯していた。この狛江陣地は陸軍の高射砲第112聯隊第3大隊第14中隊第6分隊で、中央線以南、京浜地帯より北の地区に多摩川をはさんで配備され、高射砲六十七門、照空燈十八を装備する精鋭であった。とあるからこの支隊であったのかも知れない。
都心に向かう爆撃機:B29のコースは決まっていて、偏西風を利用して西から襲ってくる。そのため高射砲陣地や照空陣地は飛行コースに沿って迎撃体制をとったが、機能する事はなく都市の無差別爆撃を許した。



<里山集落にも戦争の爪痕が眠っている。桃の根元の地神塔と並ぶ平和の碑>

 古沢地区は鎌倉古道が通る。探照灯基地跡の反対側斜面の山影に、九郎明神社が建つている。伝説によれば『昔、義経・弁慶が古沢集落に差し掛かったとき日が暮れてしまい、うら淋しいあばらや家に一夜を乞うと快く泊めてくれた。翌朝、義経はその礼として一振りの太刀を贈って鎌倉街道を北に向けて旅立った。村人はその太刀を村の神社に奉納したという。それからその神社を九郎判官義経の名をとって九郎明神社とした』とある。
 多くの源九郎判官義経伝説の一つであるが、近くの寿福寺にも義経と弁慶の鐙(あぶみ)があり「弁慶渡らずの橋」の伝説もあるので、奥州に落ち延びる時に滞在したのかも知れない。
 頼朝との確執に疲れ藤原氏を頼りに北を彷徨う義経一行の伝説にふさわしい昼なお暗い竹林に囲まれている。

<鬱蒼と茂る竹林に囲まれた石段。タケノコの季節だ。佐藤家でご馳走になる>