年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

さくら咲く

2008-04-05 | フォトエッセイ&短歌
 この時期外国人の花見客で賑わう芝・増上寺はかって寺領1万540石(寺格百万石)の最大の寺院。京都・知恩院と並ぶ浄土宗の拠点で江戸時代には修業僧や学問僧など常時3千人もの僧侶集団が生活していた。
 家康が江戸入府の折、粗末な増上寺の前で存応和尚(ぞんおうおしょう)に対面したのがきっかけで徳川家の菩提寺として隆盛を極める事になったのだ。
 また一説には江戸城の魔除けの役割を持っていたからとも言われる。古くから東北の方角を「鬼門」、南西を「裏鬼門」として恐れられた。その為に東北の方角に上野・寛永寺を南西の方角に芝・増上寺を祈願寺として建立したともされる。何てったって徳川宗家を守護する訳だから莫大な経済的保障を与えたのであろう。


       
<増上寺大殿:本堂に映える芝居の舞台のような満開のサクラ>

 家康は日光東照宮に葬られるが、葬儀は増上寺で執り行うよう遺言する。2代将軍:秀忠と正室が増上寺に埋葬されるに及んで徳川家の菩提寺として盤石の地位が築かれた。だが物事には思わぬ落とし穴もあるものだ。3代・家光は「東照宮」、4代・家綱、5代・綱吉は東北の祈願寺「寛永寺」に葬れと遺言。
 芝・増上寺の威勢は一気に凋落の憂き目に遭遇、危機感を抱いた増上寺側は抗議行動を展開するが寛永寺側も利権付きのこの栄誉を手放したくはない。熾烈な菩提寺争いは結局は交互に葬られることで一件落着だとさ。

<かっての広大な寺領に東京タワーが聳える。新旧の塔、ミスマッチでもないか>

 『今鳴るは芝か上野か浅草か』。現在も除夜の鐘でおなじみの増上寺の大梵鐘は、江戸三大名鐘の一つに数えられ、朝夕六度ずつ江戸の町の隅々まで響きわたったという。

<将軍家綱の命により鋳造された高さ3m、重さ約15トンの風格ある大梵鐘>