年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

大名領-代官屋敷

2007-09-03 | フォトエッセイ&短歌
 代官に取り立てられた大場市之丞は石橋山の合戦で源頼朝を蹴散らした平氏の大将:大庭景親(おおばかげちか)の子孫と伝えられているが、話が長くなるのでそこは省略。1590年、豊臣秀吉は「小田原攻め」で北条氏政を滅ぼして天下統一を完成させた。これを機に東海地方に絶大な勢力を振るっていた徳川家康を関東に転封(国替・250万石の大大名)して都から遠ざけた。
 当然の事ながら徳川家臣団も民族移動さながらに広大な穀倉地帯である関東平野のど真ん中に移住する事になる。移動に先立ってアオキ氏は△△郡に2万石、イシイ氏は◇◇村8千石、ウエダ氏は□□郡と○○村に3万8千石などと禄(ろく:給与=年貢)を与えられる。ヤッターウッソーソンナ… 悲喜交々・喜怒哀楽が一気に爆発する。ナンセ武士達はこの日の為に命をかけて戦場を駆け巡って戦ったのであるから。


      <影深く寂とした昼下がりの質素な代官屋敷表門>
 この戦後処理の論功行賞で注目されたのが、上野国箕輪(群馬県高崎市)に12万石を与えられた井伊直政である。この石高は徳川氏の家臣の中で最高の石高である。家筋から言えば外様、ちなみに10万石以上の領土を与えられた者は直政・本多忠勝・榊原康政の3人だけ。一体これはナンダ!
 井伊直政の精鋭部隊<井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)>の活躍は有名で、この小田原征伐でも数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ。井伊直政の勇猛は天下に轟いてはいたのだが…
 それから10年、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍の軍監に任名され、東軍指揮の中心的存在として獅子奮迅の活躍、これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市:井伊彦根藩の誕生)18万石を与えられたが、例を見ない破格の取り立てである<1602年:直政享年42才で没:若すぎる死は三成の祟りと云われる>

<年貢取り立てが代官の仕事。そのためには領内の治安維持が重要、年貢不納・楯突く者は厳しい吟味。砂ではなくデカイ礫だ、これで石抱拷問で責められたら「お恐れながら…」と嘘でも自白>

 その後、寛永10年(1633)彦根藩2代目藩主:井伊直孝の時に関東に2万石(合計35万石の譜代最高の大名)が加増され、そのうち2306石が江戸屋敷の賄料として近郊の世田谷村など20ヵ村が当てられた。この彦根藩世田谷領を支配するための代官役に起用されたのが、主没落後この地で郷士(武士級の地主)として力を持っていた大場市之丞である。大名領代官の誕生である。井伊直孝とは何者なのか…次回。