年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

松蔭-代官屋敷

2007-09-14 | フォトエッセイ&短歌
 代官屋敷の目と鼻の先に松陰神社がある。寺や神社はいくらでもあるので特段の事ではないが、余りの偶然で魔性猫が引き寄せたと思えてしょうがない。
 松陰神社は長州萩の松下村塾主宰の吉田松陰を祀った社である。秀才:松陰は9才で藩校明倫館に出勤、11才で藩主毛利敬親(たかちか)に『武教全書』を講じたというからウルトラ頭脳。世界の大勢を知り、とても長州の片田舎でおさまるウツワはない。
1852年脱藩、浦賀に停泊するペリー提督の黒船に忍び込み密航を企てるが失敗し獄につながれるが仮釈放。高杉晋作・久坂玄端・伊藤博文・品川弥二郎など明治を担うそうそうたるメンバーが訪れてくる。松陰は彼等若者たちに熱く国家を語った。いわゆる松下村塾である。
 政局は緊迫していた。佐幕・攘夷のテロの応酬が繰り返される。頑迷攘夷の孝明天皇の勅許を得られないまま大老井伊直弼は日米修好通商条約に調印した。違勅調印問題を統一テーマに攘夷倒幕派が一斉に立ち上がろうとしたその気勢を制して反対派に対する大弾圧を断行した。
 <安政の大獄である。切腹・死罪などその処刑者は75名におよぶ。「このたびの吟味は人間の皮をかぶり候者には出来申さず」と逮捕と同時に極刑が待っていたのだ。
 松陰はロシア・アメリカに密航を敢行するほどだからかなりの行動派。安政の大獄の首謀者と見られた老中:間部詮勝(あきかつ)の暗殺を計画したが、それが露見し江戸伝馬町牢内の刑場にて死罪となり(安政6年10月:享年29才)、小塚原に埋葬される。

 
      <萩の松下村塾を忍ぶミニ版 昭和11年創建>

 4年後の1863年、高杉・伊藤らは小塚原刑場の松陰の遺骨を<この地>に手厚く葬った。<この地>とは萩藩毛利家の抱屋敷である。 ☆『大名は「参勤交代」の為に江戸に「江戸藩邸」(拝領屋敷)を与えられるが、大藩はそれでは狭いので独自に土地を探して屋敷を構える。これが抱屋敷で江戸周辺の農村に多かった。熊本藩細川家の戸越藩邸(現在:戸越公園)や萩藩毛利家の若林藩邸(現:松蔭神社一帯)が有名』
 江戸中頃の絵図を見ると井伊家世田谷領に囲まれて小さな若林村がある。萩藩はこの村の地主から土地を譲り受け抱屋敷(若林藩邸)にしたのである。
つまり高杉・伊藤らは自邸の屋敷に松陰を埋葬したのだ。何と処刑を命じた井伊直弼の墓とお隣さんになったのだ。<何を語るか、幕末傑出の仇敵大物>
 翌年、禁門の変が起こると、幕府は毛利の江戸屋敷を没収すると同時に若林藩邸も取上げ屋敷地の松陰の墓も破壊させた。

<明治の重鎮、門下生の寄進灯籠:木戸・伊藤・山県・桂・乃木などの名前が>

 新撰組が走り坂本竜馬が倒れる。激動の幕末も大政奉還で幕が降ろされ天子様の御代となった。犯罪者が英雄に名誉の回復を果たす。「神社」に祀り上げられるまでには2転3転するが、明治15年門弟らが旧萩藩毛利家の若林藩邸跡の松蔭の墓の側にささやかな堂を建てた。天皇制主権国家は日清・日露戦争に勝利し欧米の帝国主義列強の仲間入りを果たした。明治41年の松蔭50年祭、その明治国家の中枢を担う松蔭門下生が石灯籠と鳥居を寄進して「松蔭神社」の産声を上げさせた。政治臭い社である。松蔭は納得し穏やかに過ごしているのだろうか。チョット~オレの考えていた社会と違うんだけどナ~。直弼君どう思うね。