年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

豪徳寺-代官屋敷

2007-09-06 | フォトエッセイ&短歌
 3代将軍家光の時、彦根藩2代目藩主:井伊直孝は世田谷領2300石を加増され大場市之丞を代官に召抱たのである。井伊直孝も父直政に劣ることなくエピソードの種は尽きない。「家康の隠し子」という巷説。大坂の陣で籾蔵に隠っていた「淀殿・豊臣秀頼母子を自害」させる大功などもその一つである。ここでは今に関係する豪徳寺の挿話を記しておこう。
 当時の世田谷は鬱蒼と自然林が続く。直孝が鷹狩りの帰りに名もなき貧乏寺の門前を通りかかると、手招きをする猫がいる。不審に思い寺に寄り、渋茶など飲んでいると、にわかに雷雨が轟き篠の突く雨。直孝はこの「手招き猫」の幸運を喜び、福を招く猫のいる寺としてこの寺を大事にし、井伊家の菩提寺とした。直孝が没した後、久昌院殿豪徳天英居士の法号から豪徳寺に寺名を変えたという。豪徳寺と招福猫児(まねぎねこ)の由来である。

              
 <この直孝の父、タヌキ親爺家康から破格の取り立てを受けた井伊直政についても一言触れておこう>
 直政は家康家臣団の中でも<三傑・徳川四天王・十六神将の一人>と神格化される並みの武将ではない。自軍を朱色の軍装で統一、自ら先陣に立って突撃する激烈な性格で<井伊の赤鬼>として恐れられた。軍功の手柄数知れず、天下統一に果たした役割は大きなものがある。家康は直政を何処で見出したのか。
 1575年、ある鷹狩りの日、山道で名も無き一人の少年:虎松(後の井伊直政)に出会った。そのあまりの美しさに一目惚、本気で惚れ込ん家康は小姓に召し出し<肌身離さなかった>といわれる。生涯で家康が唯一愛した男性である。しかし虎松は<衆道>を好まなかった。その反動で戦場を駆け巡ったのではないか……とも。いずれにしろ少年:虎松が彦根藩35万石の大大名の礎を築いたのである。豪徳寺の「招き猫」霊験あらたかなり。


 猫が耳の後ろを掻くと雨になる。豪徳寺の猫が特別ではなかったが名もない寺を有名にしたという意味では「招福猫児」の名に値する。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児(まねぎねこ)が奉納されている。友人にこの話をしたら早速豪徳寺に出掛けて猫を購入し玄関に安置したところ、ナントその3日後にピッキングにやられ、貴金属をざっくりやられたのだ。猫は魔性も併せ持ち福とは限らない凶も招く事がある。実際、代官所に凶報が持ち込まれたのはそれから約230年後の万延元年の3月である。これについてはいずれ。