遠野南部氏(八戸氏)は、甲斐源氏、南部三郎光行公の三男とも六男とも云われる南部実長公を始祖と伝えられる。
実長公は甲斐国波木井(身延)を領し、波木井六郎実長は日蓮を保護し、広大な山野を寄進し身延山久遠寺の開基と知られている。

日蓮宗総本山身延山久遠寺の南部六郎実長公像
波木井氏第四代と伝えられる南部師行公は甲州南部宗家から波木井南部家の養子として跡を継ぐも、建武親政では北畠顕家卿の幕下として奥州下向、以降、八戸を中心に南朝方として南北朝を戦い、子孫代々脈々と八戸から下北半島付近までその版図とし、後に宗家盛岡南部家、南部利直公の命により八戸より遠野へ転封、遠野南部家として遠野領主であった・・・・・。
なお、南部師行公・政長公・信政公・信光公・政光公を勤皇五世としてお祀りすると共に遠野の誇りとしている。

遠野鍋倉城跡・・・勤皇五世の碑
ということが脈々と数百年語り継がれてきたことでもあります。
しかし、昨今は南部氏研究も加速傾向、中世文書や近世文書の解読、研究も進み、少なくても南部師行公は波木井南部家を継承したといった形跡は見当たらないという見解が示されております。
こちらも併せてご覧ください ついでにこちらも
このことは、八戸はもちろん遠野でも驚愕する内容ながら、さらにこれら以上に憤慨するだろう異説も存在している。
未だに遠野の歴史を語る上で、頑なに上記の所伝を引用する先生方、研究者もおられますが、所伝は所伝としながらも、新たなる研究成果にも敏感に反応され、特にインターネット時代、これらも多く活用され、情報収集にも努められて、さらなる研究の発展に寄与していただきたいものと考えます。
私のような素人、しかも青二才が何を言う・・・これは重々承知ながら、遠野南部氏やら阿曽沼氏関連は、遠野から・・・これが望ましいのではと考えます。
さて、前置きが長過ぎましたが・・・・・
「祐清私記」という南部家関連の史書が存在する。
当然、南部家を研究する上では、有る程度読み下す、研究の対象となる史料でもありますが、私はまだ全文を拝読したことはない。
この中に、八戸氏の奥州下向のことが書かれている。
簡略に説明しますと・・・
八戸氏(遠野南部氏)は、戦国時代に甲州(山梨)から、武田信玄(信虎か)から攻められ壊滅的打撃をうけて八戸へ逃れた。
八戸は工藤氏が治めていたが、工藤氏が出陣中とも、守兵が少なく防御性が低下していた為、甲州からの一団が城を乗っ取ったとも、工藤氏の客分であったが、娘婿になったともいう・・・いずれ八戸を我物とし、三戸の南部晴政と謁見、八戸工藤氏の旧領を安堵され、八戸氏を名乗り、後に遠野へ村替となったといわれる異説でもあります。
つまり建武親政以来、八戸を主に代々脈々と歴史を刻んだ八戸南部氏は、実は戦国時代に奥州に下向して、工藤氏を乗っ取って領主となった一族というもので、八戸はもちろん遠野でも驚愕、或いは「そんたなごどあるわげねっ」と声が聞こえそうなことでもあります。
私も初めて聞かされた時は、少し驚いた記憶もございます。
北奥羽中世史を知る上での一級資料「遠野南部家文書」があるが、これらは遠野南部氏に伝えられた古文書でもありますが、南北朝期のものは、甲州から下向した師行や政長、信光に関わった本物の史料、室町期以降は八戸工藤氏が八戸氏を名乗り、八戸工藤氏に伝えられた本物の史料、後に戦国期に下向した甲州の一団が持っていた史料と合わさったことにより、一家が代々継承してきた古文書であると思われているが、さにあらず・・・・。
皆さんはどう思われますが、異説は異説だと私も考えますが、全面否定する力は私にはございません。
いずれこういった説も取り入れながら、さらなる研究調査が必要でもあると思わざるをえません。

八戸氏居舘・八戸根城(八戸市)
実長公は甲斐国波木井(身延)を領し、波木井六郎実長は日蓮を保護し、広大な山野を寄進し身延山久遠寺の開基と知られている。

日蓮宗総本山身延山久遠寺の南部六郎実長公像
波木井氏第四代と伝えられる南部師行公は甲州南部宗家から波木井南部家の養子として跡を継ぐも、建武親政では北畠顕家卿の幕下として奥州下向、以降、八戸を中心に南朝方として南北朝を戦い、子孫代々脈々と八戸から下北半島付近までその版図とし、後に宗家盛岡南部家、南部利直公の命により八戸より遠野へ転封、遠野南部家として遠野領主であった・・・・・。
なお、南部師行公・政長公・信政公・信光公・政光公を勤皇五世としてお祀りすると共に遠野の誇りとしている。

遠野鍋倉城跡・・・勤皇五世の碑
ということが脈々と数百年語り継がれてきたことでもあります。
しかし、昨今は南部氏研究も加速傾向、中世文書や近世文書の解読、研究も進み、少なくても南部師行公は波木井南部家を継承したといった形跡は見当たらないという見解が示されております。
こちらも併せてご覧ください ついでにこちらも
このことは、八戸はもちろん遠野でも驚愕する内容ながら、さらにこれら以上に憤慨するだろう異説も存在している。
未だに遠野の歴史を語る上で、頑なに上記の所伝を引用する先生方、研究者もおられますが、所伝は所伝としながらも、新たなる研究成果にも敏感に反応され、特にインターネット時代、これらも多く活用され、情報収集にも努められて、さらなる研究の発展に寄与していただきたいものと考えます。
私のような素人、しかも青二才が何を言う・・・これは重々承知ながら、遠野南部氏やら阿曽沼氏関連は、遠野から・・・これが望ましいのではと考えます。
さて、前置きが長過ぎましたが・・・・・
「祐清私記」という南部家関連の史書が存在する。
当然、南部家を研究する上では、有る程度読み下す、研究の対象となる史料でもありますが、私はまだ全文を拝読したことはない。
この中に、八戸氏の奥州下向のことが書かれている。
簡略に説明しますと・・・
八戸氏(遠野南部氏)は、戦国時代に甲州(山梨)から、武田信玄(信虎か)から攻められ壊滅的打撃をうけて八戸へ逃れた。
八戸は工藤氏が治めていたが、工藤氏が出陣中とも、守兵が少なく防御性が低下していた為、甲州からの一団が城を乗っ取ったとも、工藤氏の客分であったが、娘婿になったともいう・・・いずれ八戸を我物とし、三戸の南部晴政と謁見、八戸工藤氏の旧領を安堵され、八戸氏を名乗り、後に遠野へ村替となったといわれる異説でもあります。
つまり建武親政以来、八戸を主に代々脈々と歴史を刻んだ八戸南部氏は、実は戦国時代に奥州に下向して、工藤氏を乗っ取って領主となった一族というもので、八戸はもちろん遠野でも驚愕、或いは「そんたなごどあるわげねっ」と声が聞こえそうなことでもあります。
私も初めて聞かされた時は、少し驚いた記憶もございます。
北奥羽中世史を知る上での一級資料「遠野南部家文書」があるが、これらは遠野南部氏に伝えられた古文書でもありますが、南北朝期のものは、甲州から下向した師行や政長、信光に関わった本物の史料、室町期以降は八戸工藤氏が八戸氏を名乗り、八戸工藤氏に伝えられた本物の史料、後に戦国期に下向した甲州の一団が持っていた史料と合わさったことにより、一家が代々継承してきた古文書であると思われているが、さにあらず・・・・。
皆さんはどう思われますが、異説は異説だと私も考えますが、全面否定する力は私にはございません。
いずれこういった説も取り入れながら、さらなる研究調査が必要でもあると思わざるをえません。

八戸氏居舘・八戸根城(八戸市)
「本当のことは誰にもわからない」
これだと思います。
現在のように「公文書」など存在しない時代に文字に残すと言うことは、自分のしてきたことを正当化する為に残すことが殆どで、時の権力者によって改ざんされることも多かったかと思います。
疑えばキリが無いし、信じてもキリがない。しかし、何でも「データーを集めると」そこに、必ず「共通点」という本心に迫る何かが現れる。
調べ物ってそれが楽しいんだよなぁ~
そして、自分が調べたのと同じ答えにぶつかると、鳥肌がたち、興奮して夜も眠れなくなったりして。
毎回楽しみにしております。
また自分での調べが、著名な書籍や資料と同じ内容だったりとすると、やはり私もとてつもない興奮としてやったりと変な誤解を感じたりします。
ホントのことは誰もわからない・・・これに尽きますが、これをいったら御終いでもあり、歴史を学ぶといった姿勢は崩れてしまいます。より近く、より史実を求めながらも、自分の学問として、今後も取り組みたいと思います。
櫛引八幡の分霊を祀ったという記述、ホントは削除にて対処する所存でしたが、何かしらの資料等があるかもしれません。もう少し調べてみたいと思います。
内容如何によっては、私も憤慨するかもしれませんが、異説は異説としてとりあえず聞き流しておきたいと思います。
また、「遠野南部氏やら阿曽沼氏関連は、遠野から・・・これが望ましいのではと考えます。」という意見は、実際にそれができればベストかと思いますが、他の地方の人間の意見を聞いて、郷土愛に偏りかけた史観をチューニングする必要もあるのではないでしょうか。阿曽沼氏を調べるのは栃木の人、菊池氏を調べるのは熊本の人、なんて言われたら、他の地域の歴史家は面白くないかもしれません。でも、阿曽沼氏に関しては、とらねこさんに本当に期待していますよ!
「祐清私記」の件ですが、私は結構注目しているんですよ。事実かもしれないと。その理由については、今はまだ発表できませんが、先入観を捨てて少し読み方を変えてみると、新しい何かが見えてくることがあります。
ところで私は、自分が調査研究して出た結果が、著名な方であろうがなかろうが、その人の意見と一緒だった場合、「なんだー、先にやられていたかー」とショックを受けます。しかし、そこで研究をやめずに更に探求するようにしています。私の尊敬する王陽明も「道に終窮なし。いよいよ探ればいよいよ深し。必ず精白にして一毫の徹せざるなからしめば、まさに可なり」と言ったといいます。と、ちょっとカッコつけてみましたが、そんな感じなので本の著述のほうは行き詰ったり少し進んだり、なかなか苦しい進みようです。
歴史というのは結局のところ人間の営みの積み重ねであり、人間の本質は太古の昔からかわっていないので、現代の私たちの周りの人たちの動きを見ていれば、歴史の推理に思いが至り、過去の歴史を調べていると、現代の私たちの周りの人たちの動きもよく見えてくると思います。
なんだか、話が脱線してしまいましたが、歴史を調べることは本当に面白いことですね!
また、立川では久し振りにお会いでき、色々とお話しを伺うことができた感謝申し上げます。
さて、「さらに憤慨するだろう・・・・」は、全く文章での表現不足といいますか、私の文章力の至らないことです。
祐清私記での説のことでして、前段にそのことを書いてしまっただけです・・・誤解を受ける内容で申し訳ございません。
それと「・・・遠野から・・」これは、稲用さんの仰せももっとものですし、地元だからといって、それに胡坐をかいているものでもありません。他方向から見る、他地域でもすばらしい研究成果をみることもでき、かえって他からの成果により、刺激されて頑張ってみる・・・こちらの方が多いのかと思います。
私は、単純にこの考えの逆を望む・・・これを言いたかっただけです。地元に「喝」を入れる、自分自身に言い聞かせる、他地域の方々の研究、調査を以って「よし」とすることなく、もっと地元学を学ぼう・・このことのみです・・・。
ただ、地元民のみ知る情報も駆使できるという強みもありますから、これらを取り入れて、地元ならではの郷土史も構築したい、そんな思いもあります。
いずれ、今後も色々とご教授いただく場面が結構ございますので、その際はよろしくお願いします。
「祐清私記」ですが、上にも書きましたが、読み方を変えてみるとそこに真実が垣間見れるかもしれません。南部氏が甲斐から糠部へやってきたというのは事実であり、それが南北朝時代か戦国時代かの違いだけだと思いますが、もしかして、戦国時代まで八戸はずっと工藤氏の領地だったととれるような内容が憤慨するポイントなのでしょうか。私は八戸近辺は八戸氏(南部氏)と工藤一族が共存していたと考えています。さて、根城はというと…。ずっと八戸氏が拠っていたと考えたいですね。
それと、「・・・遠野から・・」の件は、私の想像では、郷土史を研究している地元の方々は集落や親戚ごとに一人くらいは居て、総数では、例えば遠野市内では数百人以上はいると思います。ただ、そういう方々は自分の中だけで完結してしまって、他の人々、つまり横のつながりに乏しいのではないかと思います。そうなると自家中毒な研究行為で終わってしまいます。そこで、とらねこさんの活躍の場となりますが、そういう方々から情報を集めて体系化したり、横のつながりをコーディネートしたりできたらもっと研究が進むのではないでしょうか。
「地元民のみ知る情報」もインターネットに公開したとたん、全世界・地球人の共有情報となります。そうすると今まで全然関係ないと思っていた地域の人からの情報提供や助言を受けることもあります。
とらねこさんは、インターネットを駆使した遠野の郷土研究家としては筆頭格でありますので、引き続き今後のご活躍を楽しみにしています。私も私なりのポジションで調べを続けていきますね。
八戸氏(遠野南部家)は、八戸工藤氏でも甲州から下った南部氏でもよいのですが、勤皇五世という戦前の教えみたいなものを聞かされた年代にとっては、遠野の南部さんは師行や政長が先祖でなければならないのです。
また工藤氏ではダメなのです・・・南部でなければならないのです・・・と私はわかったようなことを書いてますが、無論私の見解はズレているかもしれませんが、いずれ勤皇五世が最大の誇りというのは間違いないことでもあります。
それが途中で甲州から逃れてきて、工藤氏を憚ってとか、留守を狙って横領したでは、勤皇五世の事績は霞んでしまいます。それだけ勤皇五世及び遠野南部氏は郷土の誇りかもしれません(若い世代や歴史に興味のない方々は異なります)・・・・ただし、南部氏も遠野物語中心の遠野のあり方の中では、立場は極めて薄いかもしれません。ましてや阿曽沼となればなおさらです。
遠野の郷土史を支えている皆さん、稲用さんのご推察通りでもあります。集落には必ず1人はこういった方がおります。この方々の横のつながり、割と老人会とか何かの集まりでは結構行き来があるみたいです。
口では伝えられるも、公の場に出ない細々とした内容、こちらも結構ありそうです。
今後、このような先輩方の力もお借りして、頑張ってみたいとも思ってます。
来春は遠野春の陣ですかね、ジンギスカンにておもてなしいたします。
しかし、南朝は正統な皇位ではないと主張する人々も存在するので、なかなかデリケートな問題ですね。
個人的には、南朝か北朝かというより、師行の意思を五代(史料的裏づけは無いが)に渡って貫き通した、そういう「意地」のようなところに爽快な感覚を得ます。まさしく、「気骨」といいましょうか、そういうところには誇りを感じるべきかと思います。
…そうですか。やはり今の時代にも脈々と受け継がれているんですね。なかなか感慨深いです。
今後共よろしくお願いします。
突然失礼いたしました。よろしくお願いいたします。
以下は遠野市観光交流課からいただいた返信の抜粋です。
カッパ淵の旧安倍邸の説明版の件ですが、情報元は本市図書館に昭和56年に寄贈を受けた
「あべやしき」という書物に記述されている内容を基としています。
その書物には、それ以上について記述されているところはなかったので、お問合せにあった
「甲州にある元の神社」の件については不明でした。
なお、この情報については、本市の学芸員から聞いたものです。以上です。
コメントいただきありがとうございます。
まずはお訪ねの稲荷社については遠野市からの返信のとおりで小生も詳しくは存じあげません。
遠野と甲州すなわち甲斐国との関りは南部氏(南部藩)の陸奥国経営(青森県・岩手県)に起源するのはそのとおり
で、遠野との関連に関しては江戸期に入ってからが正しいという見解に変ってきているようです。
阿部屋敷跡は前九年の役での安部氏縁の歴史を伝える場所ですが、甲州との関りを辿れば古くても江戸時代と
いうことになりそうですが、これも確証はありません。
ただ江戸後期辺りに身延山(山梨県身延町)日蓮宗との関係が構築されたのか?身延山に関わり深い寺院が開山し
た経緯もあるので、この方面からか?
いずれこちらも確証は薄いですね。
ということで、詳しくは不明ということで、すみません。
重ねてコメント、お問い合わせいただき、ありがとうございました。