氷点下の朝、早池峰山も前薬師も白く雪化粧、また昨日(16日)の朝は雪もちらつき初雪となりましたが、附馬牛町等の遠野北部での観測、冬将軍の足音も日増しに近づいてきているようです。
さてさて、満を持しての小生の郷土史分野フィールドワーク、遠野市内の館跡探訪を本日(17日)開始いたしました。
いよいよという場面ですが、まずは地元松崎町内で気になっていた館跡を一発目に探訪調査いたしました。
○ 真立館と沼の御前
暖冬だった今年の冬、この機とばかりに松崎館を再訪し、さらに矢崎と松崎の境目である同間洞の上方の山野に館跡を発見、峰は松崎館と通じているが独立した館跡と判断するも名称がわからない、資料によれば松崎館と隣接する館跡を真立館と記されているので、そのまま真立館と記載した。
また矢崎や駒木の人々の中には、この場所を真立と呼ぶ方々もおり、私もそうだと思っておりました。
さらに以前から蓴菜沼跡(御前沼)の後方の山野は館跡であるとの内容を聞き及んでおりましたが、最近、駒木に住む郷土史に明るい古老の方から、「かなり立派な館らしいぞ、機会があったら一緒にみて来よう・・・」と言われており、また、松崎新館ではないのか、こちらの方が立派ではないのか?そんな話を伺っておりました。
本日、この館跡を探訪するにあたり、今一度、松崎町の史跡等を記載した冊子を読み返してみると、「真立館と沼の御前」と記載されており、私が探訪しようとする館跡は真立館なのか?少し頭がマヤマヤした中、まずは行ってみようということで、探訪して参りました。

沼の御前の祠なのか荷渡観音なのか、それともお稲荷さん、はやり神なのか不明、おそらく沼の御前の祠かと思います。
前面は蓴菜沼跡です。
この祠から斜面を這い上がるように猪突猛進、もの凄い急斜面が遙か上方まで続いている。
途中に横断する林道があって、いくら虎のように山野を這いつくばっても、体力的にきつい、林道を進み、途中から峰沿いに山頂を目指した。
途中、館跡特有の段差は皆無、これは場所違いか、それとも只の伝承か?と思いながら間もなく山頂という場面で、立派な遺溝を発見、まさしく空掘跡である。



南北27メートル、東西20メートルの頂部平場を一周する空掘一重、段差のある平場(帯郭)は皆無で、山頂にはいくつかの大き目の窪みが確認できた。
資料や冊子によると竪穴式住居の跡ではないか?との記述、ということは安倍時代か蝦夷時代の遺跡となりますが、確かに戦国的な匂いは感じない、一重の堀をただ廻らせただけの単純な構造である。
市内には160を超える館跡があるとされるが、全てが阿曾沼時代といわれるものではないはず、しかし、チャシといわれるものやら安倍時代の館跡と称されるものの多くは、限りなく戦国期的な印象でもあります。
しかし、この館は、安倍時代といわれれば、そんな感じもする館跡でもあり、少なくても近隣の松崎館が機能していた時代のものではないこと、これは間違いないのではないか・・・・と思いました。
蓴菜沼跡

館が機能していた時代は、この沼跡付近を猿ヶ石川が流れ、川と急斜面の山野に守られた要害だったに違いない。
猿ヶ石川は何度かその流れを変え、この沼は川が流れていた時代の名残であっただろうと思われます。
ところで、市内には数箇所、沼の御前に関連する地域があって、そのほとんどが館跡が隣接している。
この真立館もそのひとつながら、どのような関連があるのかは、要課題といったところかと思います。

当ウエブサイト本編にての遠野の館跡・松崎町の館跡に掲載の真立館、今回、真立館と呼ばれる館跡を探訪したことにより、こちらを真立館といたします。
なお、松崎館隣接の館跡は、考えるに松崎館の二の郭的な雰囲気もあり、さらなる考証を行って修正等をしたいと考えております。こちら
○ 宮沢館(宮沢チャシ)
松崎の真立館につづき、気になっていた館跡、土淵町飯豊の宮沢館を探訪いたしました。
結論からいえば空振、後醍醐天皇社上方の山野を徘徊、さらに熊野神社方面まで足を伸ばして、くまなく探訪したのですが、目立った遺溝等の発見至らず・・・。
宮沢の地名やら後醍醐天皇様の祠、熊野神社といった南北朝時代に関連する何かがあるのではとの思いと裏腹、史跡としての何かを見つけられず少しばかり残念でもあります。
ただ、天皇様の祠周辺に帯郭的な段差ある平場、さらに熊野神社境内周辺の段差やら、館跡としての匂いは感じますが、これも神社勧進の際の工作物の可能性大かもしれません。
後醍醐天皇様

熊野神社

熊野神社の由来等は笛吹童子さんの解説を待ちましょう・・・・笑
山野徘徊で、飯豊方面を望む

今回のお疲れ山野徘徊ルート・・・宮沢館跡探し


ということで、今シーズンの館跡探訪が始まりましたが、中沢館(未)、臼館
(再)・・・青笹町
板沢館・刃金館(再)・・・上郷町(未踏の館2箇所程)
新谷館・鮎貝館(再)、西舘(未)・・・小友町
その他、天候等を勘案しながら併せて20箇所程度探訪調査できたらと考えております。
今シーズンの目玉は青笹町の中沢館と小友町の新谷館です。
さてさて、満を持しての小生の郷土史分野フィールドワーク、遠野市内の館跡探訪を本日(17日)開始いたしました。
いよいよという場面ですが、まずは地元松崎町内で気になっていた館跡を一発目に探訪調査いたしました。
○ 真立館と沼の御前
暖冬だった今年の冬、この機とばかりに松崎館を再訪し、さらに矢崎と松崎の境目である同間洞の上方の山野に館跡を発見、峰は松崎館と通じているが独立した館跡と判断するも名称がわからない、資料によれば松崎館と隣接する館跡を真立館と記されているので、そのまま真立館と記載した。
また矢崎や駒木の人々の中には、この場所を真立と呼ぶ方々もおり、私もそうだと思っておりました。
さらに以前から蓴菜沼跡(御前沼)の後方の山野は館跡であるとの内容を聞き及んでおりましたが、最近、駒木に住む郷土史に明るい古老の方から、「かなり立派な館らしいぞ、機会があったら一緒にみて来よう・・・」と言われており、また、松崎新館ではないのか、こちらの方が立派ではないのか?そんな話を伺っておりました。
本日、この館跡を探訪するにあたり、今一度、松崎町の史跡等を記載した冊子を読み返してみると、「真立館と沼の御前」と記載されており、私が探訪しようとする館跡は真立館なのか?少し頭がマヤマヤした中、まずは行ってみようということで、探訪して参りました。

沼の御前の祠なのか荷渡観音なのか、それともお稲荷さん、はやり神なのか不明、おそらく沼の御前の祠かと思います。
前面は蓴菜沼跡です。
この祠から斜面を這い上がるように猪突猛進、もの凄い急斜面が遙か上方まで続いている。
途中に横断する林道があって、いくら虎のように山野を這いつくばっても、体力的にきつい、林道を進み、途中から峰沿いに山頂を目指した。
途中、館跡特有の段差は皆無、これは場所違いか、それとも只の伝承か?と思いながら間もなく山頂という場面で、立派な遺溝を発見、まさしく空掘跡である。



南北27メートル、東西20メートルの頂部平場を一周する空掘一重、段差のある平場(帯郭)は皆無で、山頂にはいくつかの大き目の窪みが確認できた。
資料や冊子によると竪穴式住居の跡ではないか?との記述、ということは安倍時代か蝦夷時代の遺跡となりますが、確かに戦国的な匂いは感じない、一重の堀をただ廻らせただけの単純な構造である。
市内には160を超える館跡があるとされるが、全てが阿曾沼時代といわれるものではないはず、しかし、チャシといわれるものやら安倍時代の館跡と称されるものの多くは、限りなく戦国期的な印象でもあります。
しかし、この館は、安倍時代といわれれば、そんな感じもする館跡でもあり、少なくても近隣の松崎館が機能していた時代のものではないこと、これは間違いないのではないか・・・・と思いました。
蓴菜沼跡

館が機能していた時代は、この沼跡付近を猿ヶ石川が流れ、川と急斜面の山野に守られた要害だったに違いない。
猿ヶ石川は何度かその流れを変え、この沼は川が流れていた時代の名残であっただろうと思われます。
ところで、市内には数箇所、沼の御前に関連する地域があって、そのほとんどが館跡が隣接している。
この真立館もそのひとつながら、どのような関連があるのかは、要課題といったところかと思います。

当ウエブサイト本編にての遠野の館跡・松崎町の館跡に掲載の真立館、今回、真立館と呼ばれる館跡を探訪したことにより、こちらを真立館といたします。
なお、松崎館隣接の館跡は、考えるに松崎館の二の郭的な雰囲気もあり、さらなる考証を行って修正等をしたいと考えております。こちら
○ 宮沢館(宮沢チャシ)
松崎の真立館につづき、気になっていた館跡、土淵町飯豊の宮沢館を探訪いたしました。
結論からいえば空振、後醍醐天皇社上方の山野を徘徊、さらに熊野神社方面まで足を伸ばして、くまなく探訪したのですが、目立った遺溝等の発見至らず・・・。
宮沢の地名やら後醍醐天皇様の祠、熊野神社といった南北朝時代に関連する何かがあるのではとの思いと裏腹、史跡としての何かを見つけられず少しばかり残念でもあります。
ただ、天皇様の祠周辺に帯郭的な段差ある平場、さらに熊野神社境内周辺の段差やら、館跡としての匂いは感じますが、これも神社勧進の際の工作物の可能性大かもしれません。
後醍醐天皇様

熊野神社

熊野神社の由来等は笛吹童子さんの解説を待ちましょう・・・・笑
山野徘徊で、飯豊方面を望む

今回のお疲れ山野徘徊ルート・・・宮沢館跡探し


ということで、今シーズンの館跡探訪が始まりましたが、中沢館(未)、臼館
(再)・・・青笹町
板沢館・刃金館(再)・・・上郷町(未踏の館2箇所程)
新谷館・鮎貝館(再)、西舘(未)・・・小友町
その他、天候等を勘案しながら併せて20箇所程度探訪調査できたらと考えております。
今シーズンの目玉は青笹町の中沢館と小友町の新谷館です。
昨年の秋に図らずもハケーン!でしたっけ。
あの侭斜面を駆け上がっていれば舘跡でしたか。
また、そのデカ鈴神社は、遠野物語にある松崎の「ハヤリ神」だとも言われているようですが真偽のほどは烏賊煮?
今年はまっとうな冬が来そうな気配。
各遠野関係サイトさんの一連の画像を見て、一昨年と近い雰囲気を感じました。
貴重なひと時を有効活用してくらさいねー
本格的な降雪となる前の当方のライフワーク的な季節到来です。
今回はいくつこなすことができるが問題ですが、雪はできるならクリスマス辺りと正月に降ってもらえれば・・・後は真冬の季節でもありますから例年並みに・・・暖冬は住むものにとっては歓迎ではありますが、しかし、雪も暖かさも「やんべ」にですね。
デカ鈴神社、はやり神ですか・・・地元なのに教えられてしまいました・・・汗・・・この界隈、顔見知りも多く、あまり顔を見せたくないんですよね・・・駒木の○○の息子だっ・・・とか言われますし、あまり接触を持ちたくないお宅もあったりして・・・・あっ、祠の中は空っぽでした・・・笑
12月、都合が合えば遠野へ行って館めぐりをして忘年会をしたいものです。
真立館、防御性集落でしょうか?
上北郡の防御性集落と似てるような感じです。
ところで沼の御前の祠か?と書かれている写真の
祠は、ハヤリ神の祠ですだ。沼の御前の祠は同じ
山の斜面にある木々の根元に鎮座する、これより
も小さな祠です。
いよいよシーズインです。
手始めとしては、可もなく不可もなくといった無難な滑り出しですが、徐々にペースをあげて本格派な山城へと突入です。
防ぎょ性集落・・・いわれればそのとおりかもしれません。
ただ、山上の狭い範囲での平場、住居は数軒といったところかもしれません。
あるいは主郭とみられる場所は長の住まいとか祭壇があった場所か?・・・・安倍時代の雰囲気は感じられます。
雰囲気は角地山館と似ております。
ご無沙汰しておりました。
はやり神の件は了解いたしました。
地元松崎町内に住まいしながら、しかもHPで松崎を扱いながら、お恥ずかしい限りです・・・汗
鍋倉神社三百年祭の頃までは、宝物館の中に
後醍醐天皇より戴いた甲冑・刀剣・重藤の弓
と、足利尊氏よりの勧告状などが納められて
いたそうですが、東京の東郷寺に持っていか
れたと聞きましたが、どうなんでしょう?
現在の状況はわかりません。
八戸のように櫛引八幡宮宝物殿に収蔵とかであれば、わかりやすいのですが、展示会が最近催されたとか聞きませんので、どうなんでしょうね。
明治維新後、遠野南部家の宝物は切り売りされて借財の支払やらにまわされてとも言われます。
また遠野南部家文書もその一部は流出、宮崎文書、新渡戸文書と呼ばれるものとなっております。
遠野南部家後継の方が持っているのは500点前後の文書のうち、330点位とか?
また大正期にお家騒動みたいなことがあったそうで、この際も宝物の動きがあったのだろうか?
祖父から聞いた話(不正確かも知れません)。
大正時代?遠野南部家は男爵位をもつ華族だったものの困窮し代々の什宝を手放したとか?
当時、旧藩主とか大名家では「売立」と称する骨董品の売却があったそうで佐竹家やら伊達家のような大大名でも例外ではなかったようです。
その売立の際鑑定するとかといって「贋作」だとか難癖をつけられ花巻→東京に散逸したとか。当時の遠野
の巷を賑わした事件だったようです。
遠野南部家宝物の売立の話は結構有名な内容で、遠野南部家の歴史とかの書籍にも登場しております。
かなり高価な凄いものと思っていたのに、贋作だったとかよくあったそうです。
男爵家とはいえ、ほとんど収入がない、旧臣達の苦労もかなりあったようですね。