後醍醐天皇を祀る神社(祠)、私の知っている範囲では、ここ遠野では聞いたことがない、その名も「後醍醐天皇様」・・・この祠が土淵町飯豊の山中に鎮座している。
※後醍醐天皇、第96代天皇・・・南北朝時代、南朝側の象徴
後醍醐天皇を祭神とする神社は吉野神社があるが、その創建は比較的新しく明治20年代といわれる。

画像は一応、後醍醐天皇様といわれる祠を写したつもりではありますが、ここがそうかといわれれば、少し自信がない。
実は、昨年の春、飯豊地区の簡略ながら歴史やら民俗に関わる内容を調べ本サイトへアップしましたが、この際に、妻の実家が建立とされる天皇(天王)様といわれる社も画像取材と考え、義母にその場所を聞いて画像に収めたのですが、少し場所のズレがあったような・・・・その際は私は確か天王様と共に山の神の名も聞いたような・・・いずれ行って見たら鳥居と祠があったのでまずはよしっ・・とした経緯があります。
また、今回の話題については花館の調べの一環でもありますが、本日も妻の実家を訪ね、今一度、後醍醐天皇様の祠は何処か・・・と聞きましたが前回と同じ答えだったので、再訪いたしまして、画像に収めてきたわけです。
それでもなんか違うような、さらに林道を進んだところに別の祠があるような・・・地元の方、違ってましたらご指摘ください。

朽ち果てた祠と現在の祠
さて、後醍醐天皇様といわれる祠、飯豊宮澤の宮澤家(分家)が本家より分家した際に建立したと伝えられます。
ということは大正時代か昭和の初めということになろうと思いますが、何故に後醍醐天皇なのか・・・妻の祖母によりますと、流行病の治癒を祈願しての建立と聞いているということ、修験者だったか祈祷をする方に勧められたとか・・・いずれその詳細はわからないが近年になってからの建立で間違いなさそうだ。
飯豊宮澤(宮沢)地区・・・
何故に宮沢といわれるのか、言い伝えによるとその昔、皇室縁の人物とか、宮中に関係する人物がこの地に流れてきて住み着いたから・・・と語られる。
その住み着いた場所近くの沢ということで「宮」沢となったとか・・・。
明治初めまでは宮沢村が存在、さらに江戸初期の寛永4年(1627)、八戸弥六郎直義(八戸直義・遠野南部氏初代)に南部藩主である南部利直から与えられた黒印状には飯豊村47石4合と共に「宮沢村33石786合」とはっきり記述されているので、宮沢という地名は少なくても阿曽沼時代には付けられていた地名であるのが伺われる。
ですから、遠野地方でも古い神社が存在しての宮なのか、皇室縁の人物が居たという伝承による宮なのか、これはわからないが、いずれ歴史的何か存在する興味深い土地でもあり、あながち皇室縁の人物或いは公家といった宮中に関連した人物が居たということは、案外史実なのかもしれない・・・と私は考えます。

祠が鎮座する平場・・・・
実はこの場所は宮沢チャシといわれる城館跡の一部でもあります。
館の本郭はさらに上部の山野であるが、この場所も階段状の地形、これは何か歴史的事実が隠されているに違いないと判断しております。
まっ、吉野神社との関連はわかりませんが、この後醍醐天皇様、古に・・それも南北朝時代に何かこの地にあったのではないのか、これはお隣沢田の花館にも関わりありそうということで、本編サイトで明らかにしたいと思います。
余談ですが・・・
花館を最後に下りた人物が言い伝えとして残されている。江戸時代、花館跡の館内にいくつかの家が存在したといわれる。
朝、農地のある麓へ下りて農作業、夕方になって舘山に帰るといった生活は流石不便だったということで、ほとんどの家は麓に下りて生活を始めたとされる。
最後に舘山を下りた人物を万助と言い、なんでも幕末の頃とか・・?・・糠前の善応寺近くに家を構えたが、屋号を「はんだて」という・・・。本姓は菊池。
「はんだて」は「花舘・はなだて」のことで、これまた偶然なのか、何かの縁なのか・・・妻の実家の祖母はこの屋号「はんだて」から飯豊宮沢家に嫁いできたのです。
つまり後醍醐天皇を祀る宮沢家に・・・・何か南朝の忠臣菊池氏、後醍醐天皇を信仰した宮沢家・・・何かしら不思議なつながりが感じられます。
またまた余談であまり関連はないのですが、我家は松虫・鈴虫とされる伝説を伝える家、屋号を宮洞という・・・宮中に仕えていたとされる官女である松虫姫・鈴虫姫が京の都より遠くこの陸奥の遠野まで流れてきて宮洞といわれる地に住まいしたとされる内容ですが、この宮洞と宮沢・・・宮つながりで恥ずかしながら愛以上の見えない何かで妻と一緒になったのではないか・・おしょす~・・・我姓も菊池・・遠野では馬の糞といわれる菊池姓・・・それでもこの後醍醐天皇につながる南北朝時代の何かがあるのでしたら、これまた不思議なことでもあります。
おしょす・・内容も含まれておりますが、詳細は「遠野松崎じぇんご弐・遠野阿曽沼氏」で公開いたします。
※後醍醐天皇、第96代天皇・・・南北朝時代、南朝側の象徴
後醍醐天皇を祭神とする神社は吉野神社があるが、その創建は比較的新しく明治20年代といわれる。

画像は一応、後醍醐天皇様といわれる祠を写したつもりではありますが、ここがそうかといわれれば、少し自信がない。
実は、昨年の春、飯豊地区の簡略ながら歴史やら民俗に関わる内容を調べ本サイトへアップしましたが、この際に、妻の実家が建立とされる天皇(天王)様といわれる社も画像取材と考え、義母にその場所を聞いて画像に収めたのですが、少し場所のズレがあったような・・・・その際は私は確か天王様と共に山の神の名も聞いたような・・・いずれ行って見たら鳥居と祠があったのでまずはよしっ・・とした経緯があります。
また、今回の話題については花館の調べの一環でもありますが、本日も妻の実家を訪ね、今一度、後醍醐天皇様の祠は何処か・・・と聞きましたが前回と同じ答えだったので、再訪いたしまして、画像に収めてきたわけです。
それでもなんか違うような、さらに林道を進んだところに別の祠があるような・・・地元の方、違ってましたらご指摘ください。

朽ち果てた祠と現在の祠
さて、後醍醐天皇様といわれる祠、飯豊宮澤の宮澤家(分家)が本家より分家した際に建立したと伝えられます。
ということは大正時代か昭和の初めということになろうと思いますが、何故に後醍醐天皇なのか・・・妻の祖母によりますと、流行病の治癒を祈願しての建立と聞いているということ、修験者だったか祈祷をする方に勧められたとか・・・いずれその詳細はわからないが近年になってからの建立で間違いなさそうだ。
飯豊宮澤(宮沢)地区・・・
何故に宮沢といわれるのか、言い伝えによるとその昔、皇室縁の人物とか、宮中に関係する人物がこの地に流れてきて住み着いたから・・・と語られる。
その住み着いた場所近くの沢ということで「宮」沢となったとか・・・。
明治初めまでは宮沢村が存在、さらに江戸初期の寛永4年(1627)、八戸弥六郎直義(八戸直義・遠野南部氏初代)に南部藩主である南部利直から与えられた黒印状には飯豊村47石4合と共に「宮沢村33石786合」とはっきり記述されているので、宮沢という地名は少なくても阿曽沼時代には付けられていた地名であるのが伺われる。
ですから、遠野地方でも古い神社が存在しての宮なのか、皇室縁の人物が居たという伝承による宮なのか、これはわからないが、いずれ歴史的何か存在する興味深い土地でもあり、あながち皇室縁の人物或いは公家といった宮中に関連した人物が居たということは、案外史実なのかもしれない・・・と私は考えます。

祠が鎮座する平場・・・・
実はこの場所は宮沢チャシといわれる城館跡の一部でもあります。
館の本郭はさらに上部の山野であるが、この場所も階段状の地形、これは何か歴史的事実が隠されているに違いないと判断しております。
まっ、吉野神社との関連はわかりませんが、この後醍醐天皇様、古に・・それも南北朝時代に何かこの地にあったのではないのか、これはお隣沢田の花館にも関わりありそうということで、本編サイトで明らかにしたいと思います。
余談ですが・・・
花館を最後に下りた人物が言い伝えとして残されている。江戸時代、花館跡の館内にいくつかの家が存在したといわれる。
朝、農地のある麓へ下りて農作業、夕方になって舘山に帰るといった生活は流石不便だったということで、ほとんどの家は麓に下りて生活を始めたとされる。
最後に舘山を下りた人物を万助と言い、なんでも幕末の頃とか・・?・・糠前の善応寺近くに家を構えたが、屋号を「はんだて」という・・・。本姓は菊池。
「はんだて」は「花舘・はなだて」のことで、これまた偶然なのか、何かの縁なのか・・・妻の実家の祖母はこの屋号「はんだて」から飯豊宮沢家に嫁いできたのです。
つまり後醍醐天皇を祀る宮沢家に・・・・何か南朝の忠臣菊池氏、後醍醐天皇を信仰した宮沢家・・・何かしら不思議なつながりが感じられます。
またまた余談であまり関連はないのですが、我家は松虫・鈴虫とされる伝説を伝える家、屋号を宮洞という・・・宮中に仕えていたとされる官女である松虫姫・鈴虫姫が京の都より遠くこの陸奥の遠野まで流れてきて宮洞といわれる地に住まいしたとされる内容ですが、この宮洞と宮沢・・・宮つながりで恥ずかしながら愛以上の見えない何かで妻と一緒になったのではないか・・おしょす~・・・我姓も菊池・・遠野では馬の糞といわれる菊池姓・・・それでもこの後醍醐天皇につながる南北朝時代の何かがあるのでしたら、これまた不思議なことでもあります。
おしょす・・内容も含まれておりますが、詳細は「遠野松崎じぇんご弐・遠野阿曽沼氏」で公開いたします。
それは、地名に残されていると言う。例えば早池峰山(速一院禰山ハヤイチネンサン)一院の御霊を祀った意味。附馬牛(智喜門院大人チキモンインウシ)皇妃の智喜門院の名を取ったものなど、面白いと思いませんか。
さて、長慶天皇東北下向伝説、特に八戸地方等青森県でよく聞かれる話しでもありますが、遠野に長慶天皇の伝説があるということ、今回の青笹町関連の調べでも少し感じております。
早池峰山の方はわかりませんが、中沢地区、六神石神社に関わる言い伝えといいますか、長慶天皇の墓ではないのか・・・なんていう記述なんかも目にいたしました。
ひょっとすると・・・なんて考えたりもしますが、飯豊宮沢の宮伝説は定住したのではなく、後に別場所へ移ったという話もあるようなので、これって長慶天皇のことを指しているのか・・・・でも面白いといいますか浪漫を感じる伝承です。
大変面白い・・・・鳥肌が二重・三重・四重もんです。
地元では「後醍醐さま」とか「天王(皇)様」と
確かに云っておりますが・・・私にはわかりません。
宮ノ沢、大将洞、金(君)洞、・・・・
北から順に地名が並んでます。
君が洞の南には「花舘」・・・・ムムム。
舘は戦国時代(阿曽沼時代)に・・・・?
安倍の物をリニューアルしたとか?
南朝の伝説の糸口になりそうな気もして来ました。
長慶天皇伝説やら皇族に関連する伝承・・・これはもしや・・・単なる伝承であってもなかなか興味を覚える内容でもあります。
この分野では名梨さんが先駆者といいますか、知識も豊富と思いますので、後で色々とご教授いただきたいと思います。
よろしくお願いします。
romiさん
今回は花館の調べの一環としての飯豊地区の事柄を記述しましたが、仰せのよう大将洞(屋敷)、君が洞、そして宮沢は伝承のメインという位置づけてですし、中妻の丑舘との関連も見逃すことができません。
これらは南北朝時代或いは両朝の合一直後の線が浮上してきておりまして、いずれ本編サイトにて明らかにしたいと思います・・・大半は伝承をもとに推論だらけですがね・・無論、花館の年代特定も・・・・。
無事にアップてきましたら、感想方々、ご一献をしながら出版祝でも行ないましょう・・・笑
利吉さんも含めましてお礼という意味合いもあわせまして・・・。
さなぶりに合わせてと成りますかね~。
おかげでR吉氏に現地でご教授いただいた内容のほとんどが伝承として息づいていること、これらを確認できたことは大きな収穫でもあります。
今後も舘跡含みのフィールドにての探訪調査の重要性と共に地元の伝承も絶対外してはいけないということ、あらためまして認識した次第です。
私の方は只今、宮守に期限付きの配置換え中でして、また団員であられるromiさんも操法競技会の練習やらで多忙な日々が続くものと思いますが、日程等を調整して是非にご苦労さん会兼報告会みたいな内容でやりたいと考えてますので、よろしくお願いします。
先日神戸市兵庫区門口町の福厳寺に行っててきました。福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
はじめまして。
神戸の後醍醐天皇縁の寺院の件、お知らせ痛み入ります。
なかなか関西方面に出掛ける用向きは皆無に等しく、また何かの用ついででも観ること叶わずだろうと思いますが、頭の片隅に入れて置きたいと思います。
遠野で長慶天皇伝説はほとんど根拠は乏しい内容で俗説といいますか、知られていないが現状です・・・作り話かもしれません?
いずれ浪漫のみといったところですが、これもまた楽し・・・かもしれません。