遠野市内の宇夫方姓をみると、約10数軒確認できるが、その多くは遠野市綾織町にみられる。
近年、阿曾沼時代を扱った資料のひとつ「宇夫方家譜」を所蔵していたのは、土淵町内の宇夫方氏であるのが注目されますが、土淵町の宇夫方氏が嫡流、宗家とも推測されますが、私自身研究調査に携わっておりませんので、仔細は今のところ不明としておきます。
中世宇夫方氏の主館・谷地館跡(2007年3月の画像)
館としての痕跡は探し出すことは叶わないが、その昔、宇夫方一族の館があった謂れを示す石碑と神社が当時を偲ばせている。
さて、宇夫方氏は鎌倉時代、遠野郷を源頼朝から賜った際に、主家に代わって代官として遠野へ下向したと伝えられている。
以来、200年にわたり遠野代官職の家として栄え、主に下郷方面(綾織・小友)の盟主として君臨していたと伝えられる。
主家や分家鱒沢氏が台頭する時代、戦国初期辺りからその力も陰りがみえはじめ、弘治3年(1557)綾織新里に築いた西風館を主城としていた宇夫方広本の時代に葛西勢といわれる賊徒の夜襲を受けて、当主広本、嫡男広将、次子亦次郎が討死となり西風館は落城、これ以来宇夫方氏の動向が遠野史から消え去るという内容でもあります。
ということで、遠野南部家に仕えた近世の宇夫方氏主な歴代について、記述いたします。
○ 宇夫方広久(広敏)・・・別名・西風館大学
広久は広本の三男と伝えられている。
弘治年間の西風館陥落の際、三歳の幼児だった広久は母親に抱かれ、難を脱して、母方の実家、達曽部氏により庇護されていたと語られる。
所伝では、成人して間もなく、谷地館主となっていた上野広吉(主家阿曾沼広郷の弟)に寄宿していたといわれ、後に遠野阿曾沼氏最後の当主、阿曾沼広長が鱒沢氏、上野氏、平清水氏の謀反となった遠野の政変では、人質となっていた広長夫人、子等を機転をもって夫人の実家、世田米へ逃したと伝えられますが、後の世、子孫である宇夫方広隆による著「阿曾沼興廃記」等により、阿曾沼氏に忠誠的な先祖広久を印象付けるものとして、没落した阿曾沼氏贔屓、敵対した鱒沢氏等を悪者とした印象が後々の時代まで続いたというほかならないものと思っております。
広久は気仙勢を率いて遠野奪還戦を挑んだ赤羽根峠の戦いで、遠野方で板沢館主(上郷町)の板沢平蔵と一騎打ちを演じ、板沢に瀕死の重傷を負わせる(後日死亡と語られる)
自身も三度目となる奪還戦、小友樺坂峠の戦いで深傷を負い、安俵(花巻市東和町)に養生と共に隠遁していたが、後に遠野へ帰参して谷地館に住まいしていたといわれる。
寛永13年(1636)没、光明寺に葬られている。
○ 宇夫方広道(清左衛門)
広久の嫡子、寛永4年、太守南部利直により遠野へ移封となった八戸直義に仕え、綾織村の内を知行、下郷の代官となった。
新田の開発に心血を注ぎ、綾織に苦労の末、角鼻堰を造り80町歩の新田を開墾、現在の綾織町の美田の基は清左衛門によることが大きい。
○ 宇夫方広続(長右衛門)
父、広道の知行及び役を引き継ぎ、医術の心得もあったと語られる。
猿ヶ石川に架かる愛宕橋は川中央に橋脚を用いた板橋であったというが、洪水の度に流出、さらに船渡等も行うも、交通等に支障があった。
広続は無柱の橋の建設を決意、百方考察の末に架橋工事に入り、苦難の末に寛文6年(1666)吊り橋を完成させた。
貞享4年(1687)81歳で天寿を全うした。
○ 宇夫方広隆
はじめ政春と称し、後に広隆と改名。
遠野盛岡屋敷勤番として仕え、若い頃から好学で和漢に通じ、他に武技、兵法、砲術、弓馬、刀槍を修め、彼が著した書は多く、広隆の父、政周(まさかね)と共に文才の名で今でも知られる人物である。
「阿曾沼興廃記」2巻・「八戸家伝記」25巻・「遠野古事記」7巻・「遠野旧事記」1巻・・・他
八戸家伝記は父、政周の著であるが、親子による合作ともいわれ、往古の文書を探り、古老達からの聴取、寝食を忘れて編纂に励んだ父に協力したともいわれる。
明和5年(1768)80歳で没・・・光明寺に葬る。
○ 宇夫方広明(文吾)
遠野士族、幼少の頃から書を好み、久子翠峰に師事、江戸にて遊学後、盛岡にて江幡梧楼に学ぶも、明治維新を迎える。
江刺県の神社係として出仕、後に神道教導職となる。
「阿曾沼家乗」・「南部信直伝」・「百将論」・・・他
明治33年(1900)69歳で没・・・大慈寺に墓碑があるとか・・・。
江戸時代、遠野南部家臣として命脈を伝える宇夫方氏、その歴代は文才により、多くの史書を後世に残しております。
いずれこれらが中世期の阿曾沼氏や遠野南部氏の事柄に通じる所伝の基となっております。
所伝や後に通説となったことはともかく、大方の流れをつくり資料として第一に用いられることでもあり、これらの資料を意識しなければならない。
信憑性やら史実との狭間もあろうが、これらを苦労して書き残した宇夫方氏に敬意を表したい、これが素直な気持ちでもあります。
近年、阿曾沼時代を扱った資料のひとつ「宇夫方家譜」を所蔵していたのは、土淵町内の宇夫方氏であるのが注目されますが、土淵町の宇夫方氏が嫡流、宗家とも推測されますが、私自身研究調査に携わっておりませんので、仔細は今のところ不明としておきます。
中世宇夫方氏の主館・谷地館跡(2007年3月の画像)
館としての痕跡は探し出すことは叶わないが、その昔、宇夫方一族の館があった謂れを示す石碑と神社が当時を偲ばせている。
さて、宇夫方氏は鎌倉時代、遠野郷を源頼朝から賜った際に、主家に代わって代官として遠野へ下向したと伝えられている。
以来、200年にわたり遠野代官職の家として栄え、主に下郷方面(綾織・小友)の盟主として君臨していたと伝えられる。
主家や分家鱒沢氏が台頭する時代、戦国初期辺りからその力も陰りがみえはじめ、弘治3年(1557)綾織新里に築いた西風館を主城としていた宇夫方広本の時代に葛西勢といわれる賊徒の夜襲を受けて、当主広本、嫡男広将、次子亦次郎が討死となり西風館は落城、これ以来宇夫方氏の動向が遠野史から消え去るという内容でもあります。
ということで、遠野南部家に仕えた近世の宇夫方氏主な歴代について、記述いたします。
○ 宇夫方広久(広敏)・・・別名・西風館大学
広久は広本の三男と伝えられている。
弘治年間の西風館陥落の際、三歳の幼児だった広久は母親に抱かれ、難を脱して、母方の実家、達曽部氏により庇護されていたと語られる。
所伝では、成人して間もなく、谷地館主となっていた上野広吉(主家阿曾沼広郷の弟)に寄宿していたといわれ、後に遠野阿曾沼氏最後の当主、阿曾沼広長が鱒沢氏、上野氏、平清水氏の謀反となった遠野の政変では、人質となっていた広長夫人、子等を機転をもって夫人の実家、世田米へ逃したと伝えられますが、後の世、子孫である宇夫方広隆による著「阿曾沼興廃記」等により、阿曾沼氏に忠誠的な先祖広久を印象付けるものとして、没落した阿曾沼氏贔屓、敵対した鱒沢氏等を悪者とした印象が後々の時代まで続いたというほかならないものと思っております。
広久は気仙勢を率いて遠野奪還戦を挑んだ赤羽根峠の戦いで、遠野方で板沢館主(上郷町)の板沢平蔵と一騎打ちを演じ、板沢に瀕死の重傷を負わせる(後日死亡と語られる)
自身も三度目となる奪還戦、小友樺坂峠の戦いで深傷を負い、安俵(花巻市東和町)に養生と共に隠遁していたが、後に遠野へ帰参して谷地館に住まいしていたといわれる。
寛永13年(1636)没、光明寺に葬られている。
○ 宇夫方広道(清左衛門)
広久の嫡子、寛永4年、太守南部利直により遠野へ移封となった八戸直義に仕え、綾織村の内を知行、下郷の代官となった。
新田の開発に心血を注ぎ、綾織に苦労の末、角鼻堰を造り80町歩の新田を開墾、現在の綾織町の美田の基は清左衛門によることが大きい。
○ 宇夫方広続(長右衛門)
父、広道の知行及び役を引き継ぎ、医術の心得もあったと語られる。
猿ヶ石川に架かる愛宕橋は川中央に橋脚を用いた板橋であったというが、洪水の度に流出、さらに船渡等も行うも、交通等に支障があった。
広続は無柱の橋の建設を決意、百方考察の末に架橋工事に入り、苦難の末に寛文6年(1666)吊り橋を完成させた。
貞享4年(1687)81歳で天寿を全うした。
○ 宇夫方広隆
はじめ政春と称し、後に広隆と改名。
遠野盛岡屋敷勤番として仕え、若い頃から好学で和漢に通じ、他に武技、兵法、砲術、弓馬、刀槍を修め、彼が著した書は多く、広隆の父、政周(まさかね)と共に文才の名で今でも知られる人物である。
「阿曾沼興廃記」2巻・「八戸家伝記」25巻・「遠野古事記」7巻・「遠野旧事記」1巻・・・他
八戸家伝記は父、政周の著であるが、親子による合作ともいわれ、往古の文書を探り、古老達からの聴取、寝食を忘れて編纂に励んだ父に協力したともいわれる。
明和5年(1768)80歳で没・・・光明寺に葬る。
○ 宇夫方広明(文吾)
遠野士族、幼少の頃から書を好み、久子翠峰に師事、江戸にて遊学後、盛岡にて江幡梧楼に学ぶも、明治維新を迎える。
江刺県の神社係として出仕、後に神道教導職となる。
「阿曾沼家乗」・「南部信直伝」・「百将論」・・・他
明治33年(1900)69歳で没・・・大慈寺に墓碑があるとか・・・。
江戸時代、遠野南部家臣として命脈を伝える宇夫方氏、その歴代は文才により、多くの史書を後世に残しております。
いずれこれらが中世期の阿曾沼氏や遠野南部氏の事柄に通じる所伝の基となっております。
所伝や後に通説となったことはともかく、大方の流れをつくり資料として第一に用いられることでもあり、これらの資料を意識しなければならない。
信憑性やら史実との狭間もあろうが、これらを苦労して書き残した宇夫方氏に敬意を表したい、これが素直な気持ちでもあります。
何も残っていない場所だけど、目を皿のようにして地面をなめるようにして辺りを散策してみたいです。
宇夫方氏、職場にも数名いるのでなにやら興味深い侍です。
宇夫方の文字では、ほぼ間違いなく遠野関連だと思います。
かつての宇夫方氏のご子孫とは限りませんが、縁ある家々の系統ということかもしれません。
宇夫方、宇夫の姓・・・遠野にも併せて20件もありませんからね。