雨降りの昼前、末娘の中学で着用の運動着を受け取りに街場へ・・・・。
雨に煙る町並みを 息をきらして駆け続けた
つきささる 吐息をはいて 駅への道 駆け続けた・・・・
甲斐バンド・・・裏切りの街角 より
六角牛も霞んでみえません。
土淵谷地から・・・・
その昔、小烏瀬川は何度かその流れが変わり、ある時代は海上下へ迂回して猿ヶ石川へ注ぎ、またある時代は似田貝の北側間近を流れて谷地方面へ流れていたこともあったとか、いつも通る度に思うのですが、この画像の場所、かつての川跡ではなかろうか・・・・と?
ということで、午後には雨もあがり、土淵方面へ車を走らせる・・・。
カッパ淵方面・・・安倍館があったとされる方面
遠野物語にも記されているが、「安倍と云う家ありて・・・68話」
土淵町内の安部、阿部姓の方々は前九年合戦で語られる安倍貞任を代表とする安倍氏の末裔或いは縁の家々といわれております。
カッパ淵隣接の常堅寺界隈は、かつて安倍館があったと伝承されている場所であるが、その痕跡を探し出すことは叶いません、しかし一部堀らしい跡や鏃なども出土したといわれ、遠野物語が刊行された当時から安倍氏縁の人々が住む地域と語られているので、おそらくかつての安倍氏縁の土地だったものと推測されます。
ちなみにカッパ爺さんとして有名だった故安部与市氏は北浦六郎重任から数えて28代目と伝承されている。
北浦六郎重任→安倍重任
安倍頼時六男といわれ、貞任、宗任の弟
安倍館は重任が守る館であったと伝承されている。(鳥海弥三郎家任説もある)
家任→安倍家任(頼時四男)
余談になりますが、上郷のトントミ(鳥海)・・・細越佐野に鳥海山が存在するという、物見山と連携された物見台を設けたひとつの連絡監視体制を作っていた拠点とも考察できますが、鳥海の名から鳥海三郎こと安倍宗任やら鳥海弥三郎こと安倍家任の安倍氏との関連もチラホラ・・・遠野と安倍氏との関連、これは疑いのないものかもしれません。
こちらもじっくりと取り組みたいと考えてます。
おまけ
一箇所に集められたような気がするのですが・・・・・
雨に煙る町並みを 息をきらして駆け続けた
つきささる 吐息をはいて 駅への道 駆け続けた・・・・
甲斐バンド・・・裏切りの街角 より
六角牛も霞んでみえません。
土淵谷地から・・・・
その昔、小烏瀬川は何度かその流れが変わり、ある時代は海上下へ迂回して猿ヶ石川へ注ぎ、またある時代は似田貝の北側間近を流れて谷地方面へ流れていたこともあったとか、いつも通る度に思うのですが、この画像の場所、かつての川跡ではなかろうか・・・・と?
ということで、午後には雨もあがり、土淵方面へ車を走らせる・・・。
カッパ淵方面・・・安倍館があったとされる方面
遠野物語にも記されているが、「安倍と云う家ありて・・・68話」
土淵町内の安部、阿部姓の方々は前九年合戦で語られる安倍貞任を代表とする安倍氏の末裔或いは縁の家々といわれております。
カッパ淵隣接の常堅寺界隈は、かつて安倍館があったと伝承されている場所であるが、その痕跡を探し出すことは叶いません、しかし一部堀らしい跡や鏃なども出土したといわれ、遠野物語が刊行された当時から安倍氏縁の人々が住む地域と語られているので、おそらくかつての安倍氏縁の土地だったものと推測されます。
ちなみにカッパ爺さんとして有名だった故安部与市氏は北浦六郎重任から数えて28代目と伝承されている。
北浦六郎重任→安倍重任
安倍頼時六男といわれ、貞任、宗任の弟
安倍館は重任が守る館であったと伝承されている。(鳥海弥三郎家任説もある)
家任→安倍家任(頼時四男)
余談になりますが、上郷のトントミ(鳥海)・・・細越佐野に鳥海山が存在するという、物見山と連携された物見台を設けたひとつの連絡監視体制を作っていた拠点とも考察できますが、鳥海の名から鳥海三郎こと安倍宗任やら鳥海弥三郎こと安倍家任の安倍氏との関連もチラホラ・・・遠野と安倍氏との関連、これは疑いのないものかもしれません。
こちらもじっくりと取り組みたいと考えてます。
おまけ
一箇所に集められたような気がするのですが・・・・・
5枚目の画像の後で「もやし・・・・もしや」と思ったのですが!
この人形の人気(ブキミ)投票をやったら、なんばぁ1はどれになりますかいな(笑)?
田んぼの水・・・氷でなく。
雨があがって、春っぽい風景になりましたねぇ。
こちらも雨があがり、春何番かの強風が吹いていますヨ。
ここも航空写真で見ると面白いかもしれませんね。
安倍一族・・・・
遠野物語を目にした時より気になっていた人々。
伝説の領域に入ってしまった安倍貞任ですが、遠野郷には、なお色濃く残っていますね。
最後の1枚!!!
一同並んでいますね!
何が起こるのでしょうか?
うううう、あらためて。。。。。ぶ・き・み!(爆)
前九年の役の際 その頂上が、重要な物見だったというのを読んだのですが、なるほどなと思わせる立地です。
南部さんの時代に岩山は木をすべて伐採していた、という話を聞いたりすると、地形とお城の関係が気になったりします。
盛岡は高い建物がたくさんになって、昔の戦闘の重要な箇所が分かりにくくなっていますが、調べたら面白そうだな、と思っています。
とらねこさんのブログを訪問するたび、興味が湧いてきて、とても楽しませていただいてます。
まじめに歴史関連の目論見でしたが、最後の一枚、不気味画像に喰われてしまったようですね・・・笑
一箇所に集められたようでもありますから、空いたスペースに新作でも置くところか?・・・笑
なるほど航空写真ですね、後で見てみたいと思います。
どうもこの手の館は上手く遺構等を見出せないでおります。
変形した形はわかるんですが、他はよくわかりませんです。
遠野の安倍伝説、色濃く伝えられる雰囲気ながらも実はよく知られていないひとつかもしれません。
最後の一枚、まさに・・・○気味・・・笑
強いて言えば「べご」が出来がいいかも・・・笑
盛岡は都市化が進んでますが、館めぐり仲間によりますと少し郊外の山野では、なかなか良好な館跡も残されているようですし、宅地化された場所でも、道の作りやら農地の斜面とか、それらしき遺構も確認できるようですよ。
でもこうして細かな部分を気をつけて見つけないとわからない現状、破壊されてしまった現状、少し寂しいですよね。
安倍宗任の伝説は九州が有名ですが、当時毛の国と呼ばれていた群馬県にもあります。
その伝説の地の近くには、陸奥の伝播地名とされる場所があり、安倍氏の末裔と伝わる家が今でも残っています。
http://blog.goo.ne.jp/joboji/e/cca04c017a10876ccadd45b89a6261cd
少しご無沙汰でした。
さて宗任関連、群馬の方の伝説といいますか逸話は何かの本でみた記憶がございましたが、貴ブログでのエントリーを興味深く拝見いたしました。
鳥海神社、まさしくといった感じです。
ちなみに安倍一族、貞任が嫡流かのような考え方が主流ですが、私は宗任が嫡流であった故に配流という措置ととられたのではと考えております。