氷口(こおりくち)と書いて「すがぐち」と読みますが、氷(こおり)のことを方言で「すが」と言い、方言がそのまま地名として生かされている地域でもあります。
また、この遠野市小友町氷口集落では、氷口御祝(すがぐちごいわい)という伝承が江戸時代から継承されている。
祝儀や上棟式等などのめでたい席で、謡曲などの「御祝歌」を唄う風習で謡曲とまがき歌という異なる歌を、男衆と女衆に分かれて同時に唄うという珍しいものでもあります。
最近ではメディアでも紹介され、広く知られるようになっておりますが、1990年代シンセサイザー奏者で「姫神」の故星吉昭氏の目にとまり、その希少性が見出されたことが広く知られるきっかけといわれております。

氷口からみた小友町鮎貝地区・・・氷口は鮎貝地区の北西に位置する地区。
ということで、氷口から通勤する部下がおりまして、彼の同級生もまた部下でして、そのふたりが氷口のあるお宅の庭木が十二支の形になっていると言うもので、これはどんなものなのか、一度見てみたいと思い、早速出かけて参りました。

う~・・ん・・これかな・・・。
よく見れば動物の形のような・・・・・


十二支という先入観から、どうしても干支をモチーフにした形として見てしまいましたが、虎は熊か?いやっ犬だと思っているのが実は熊か?、他にも形がわからない庭木が存在しているが、もっと確認できるところまでいけばその全容が明らかになるものと思います・・・・というか、このお宅も職場の後輩の実家ではなかったかな?(上の右端・・猪の顔にみえませんか?)
ついでに鮎貝まで足を伸ばして・・(僅かな距離ですが・・汗)

鮎貝舘跡を示す標柱
城館探訪仲間3人で現地探訪をしたことがあるが、城館という雰囲気は感じられるも当時の遺構等、これだっ・・・という確証は得ずにいた舘跡でもありました。
無論、夏草や木々が生い茂る今時期の探訪は難儀いたしますので、今回は山野に踏み入るということはありませんでしたが・・・・。
興味深い逸話をひとつ・・・
ここは鮎貝といいますが、その語源なり何故に「鮎貝・あゆかい」と呼ばれているのか・・・・。
一番年代が新しそうな説でもありますが、ご紹介いたします。
その昔、文禄の頃と伝えられます(1590年代前半)、遠野郷は遠野孫次郎(阿曽沼広郷)の時代、遠野領主であった阿曽沼氏は天正年間、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった為に改易となるところを南部信直の配下として命脈を残すも、主家筋となった南部氏とは何かと距離を置き、遠野と境を接する気仙、江刺を治める伊達政宗と誼を通じるといったことが多くなったといわれます。
また阿曽沼氏の分家である鱒沢氏は、南部氏を後盾に主家である阿曽沼広郷に代わって遠野郷第一の家となる野望があったといわれ、阿曽沼氏と鱒沢氏は度々抗争を繰り広げていたともいわております。
阿曽沼広郷或いは子の広長は、伊達政宗の力を頼み、それに応じた伊達政宗は家臣で出羽国在の鮎貝志摩守を密かに遠野領へ送ったとも、阿曽沼氏が招聘したとも語られております。
江刺との境である五輪峠を越え密かに手勢を率いた鮎貝志摩守は鮎貝に舘を築いて、住まいしたことから鮎貝となったとも伝えられますが、文献等資料には一切出てこない内容で地域に僅かに語られる程度でもあるようです。
鮎貝氏の鮎貝占拠は数年という短い期間だったとも推測されますが、地名との関係、これもまた浪漫といいますか、興味ある内容です。
話は戻って・・・・
鮎貝から再び氷口へ戻ると、氷口峠の案内板が・・・・・
すかさず山猫化してマイカーは悪路を進んでいきますが、草が多く辛うじて二本の車輪掘りが確認できる程度、ほぼ道が隠れて見えない箇所もあり不安に駆られましたが、数分後には・・・・・

開けた感じの氷口峠頂上に到達・・・・。
夏の今時期は四輪駆動の軽とか小さい車しか通り抜けできないものと思います。

峠を下りますと宮守町下鱒沢 遊井名田(ゆいなだ)に出ます。
鱒沢側は比較的道幅もあって夏でも走行は可能です。

遊井名田といえば・・・ご覧の説明板のとおりの歴史があります。
さて、山猫化はある光景を目の当たりにして、今後は少し慎もうと考えておりました・・・・汗・・・しかし、氷口峠という案内板があるということは、鱒沢まで通り抜け可能ですよ・・・との暗示・・・汗・・・ちょっと行ってみよう、もう少し・・・が遂に峠頂上まで・・・・ふと安心いたしました。

酷使した愛車「白濁酒特区すっけ号」・・・帰宅してから春の花見以来の洗車をしてサッパリ・・・・。
落ち・・・・
な・・・ななな・・なんだべぇ
ガ・・ガガガ・・ガビョ~ン

タイヤに錆びた釘が・・・・涙
山猫の仲間入りはまだ早く、及びもつかないと思っていたが、山猫さんの本当の意味での仲間入りをした瞬間でもありました・・・・自爆
また、この遠野市小友町氷口集落では、氷口御祝(すがぐちごいわい)という伝承が江戸時代から継承されている。
祝儀や上棟式等などのめでたい席で、謡曲などの「御祝歌」を唄う風習で謡曲とまがき歌という異なる歌を、男衆と女衆に分かれて同時に唄うという珍しいものでもあります。
最近ではメディアでも紹介され、広く知られるようになっておりますが、1990年代シンセサイザー奏者で「姫神」の故星吉昭氏の目にとまり、その希少性が見出されたことが広く知られるきっかけといわれております。

氷口からみた小友町鮎貝地区・・・氷口は鮎貝地区の北西に位置する地区。
ということで、氷口から通勤する部下がおりまして、彼の同級生もまた部下でして、そのふたりが氷口のあるお宅の庭木が十二支の形になっていると言うもので、これはどんなものなのか、一度見てみたいと思い、早速出かけて参りました。

う~・・ん・・これかな・・・。
よく見れば動物の形のような・・・・・


十二支という先入観から、どうしても干支をモチーフにした形として見てしまいましたが、虎は熊か?いやっ犬だと思っているのが実は熊か?、他にも形がわからない庭木が存在しているが、もっと確認できるところまでいけばその全容が明らかになるものと思います・・・・というか、このお宅も職場の後輩の実家ではなかったかな?(上の右端・・猪の顔にみえませんか?)
ついでに鮎貝まで足を伸ばして・・(僅かな距離ですが・・汗)

鮎貝舘跡を示す標柱
城館探訪仲間3人で現地探訪をしたことがあるが、城館という雰囲気は感じられるも当時の遺構等、これだっ・・・という確証は得ずにいた舘跡でもありました。
無論、夏草や木々が生い茂る今時期の探訪は難儀いたしますので、今回は山野に踏み入るということはありませんでしたが・・・・。
興味深い逸話をひとつ・・・
ここは鮎貝といいますが、その語源なり何故に「鮎貝・あゆかい」と呼ばれているのか・・・・。
一番年代が新しそうな説でもありますが、ご紹介いたします。
その昔、文禄の頃と伝えられます(1590年代前半)、遠野郷は遠野孫次郎(阿曽沼広郷)の時代、遠野領主であった阿曽沼氏は天正年間、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった為に改易となるところを南部信直の配下として命脈を残すも、主家筋となった南部氏とは何かと距離を置き、遠野と境を接する気仙、江刺を治める伊達政宗と誼を通じるといったことが多くなったといわれます。
また阿曽沼氏の分家である鱒沢氏は、南部氏を後盾に主家である阿曽沼広郷に代わって遠野郷第一の家となる野望があったといわれ、阿曽沼氏と鱒沢氏は度々抗争を繰り広げていたともいわております。
阿曽沼広郷或いは子の広長は、伊達政宗の力を頼み、それに応じた伊達政宗は家臣で出羽国在の鮎貝志摩守を密かに遠野領へ送ったとも、阿曽沼氏が招聘したとも語られております。
江刺との境である五輪峠を越え密かに手勢を率いた鮎貝志摩守は鮎貝に舘を築いて、住まいしたことから鮎貝となったとも伝えられますが、文献等資料には一切出てこない内容で地域に僅かに語られる程度でもあるようです。
鮎貝氏の鮎貝占拠は数年という短い期間だったとも推測されますが、地名との関係、これもまた浪漫といいますか、興味ある内容です。
話は戻って・・・・
鮎貝から再び氷口へ戻ると、氷口峠の案内板が・・・・・
すかさず山猫化してマイカーは悪路を進んでいきますが、草が多く辛うじて二本の車輪掘りが確認できる程度、ほぼ道が隠れて見えない箇所もあり不安に駆られましたが、数分後には・・・・・

開けた感じの氷口峠頂上に到達・・・・。
夏の今時期は四輪駆動の軽とか小さい車しか通り抜けできないものと思います。

峠を下りますと宮守町下鱒沢 遊井名田(ゆいなだ)に出ます。
鱒沢側は比較的道幅もあって夏でも走行は可能です。

遊井名田といえば・・・ご覧の説明板のとおりの歴史があります。
さて、山猫化はある光景を目の当たりにして、今後は少し慎もうと考えておりました・・・・汗・・・しかし、氷口峠という案内板があるということは、鱒沢まで通り抜け可能ですよ・・・との暗示・・・汗・・・ちょっと行ってみよう、もう少し・・・が遂に峠頂上まで・・・・ふと安心いたしました。

酷使した愛車「白濁酒特区すっけ号」・・・帰宅してから春の花見以来の洗車をしてサッパリ・・・・。
落ち・・・・
な・・・ななな・・なんだべぇ
ガ・・ガガガ・・ガビョ~ン

タイヤに錆びた釘が・・・・涙
山猫の仲間入りはまだ早く、及びもつかないと思っていたが、山猫さんの本当の意味での仲間入りをした瞬間でもありました・・・・自爆
洗剤で漏れを確認して、漏れてたら釘を抜かずに早く修理屋さんへ・・漏れがなければ
もうけもので、釘を抜いて「どんどはれ」です。
氷口峠は昔、オフロードバイクで通ったことがあります。
バイクでは物足りない位でしたが、普通の車ではやっぱり気を使いますよね(笑。
でも「白濁酒特区すっけ号」なら「青い彗星号」よりは林道向き?
タイヤの釘も今のスタッドレスタイヤなら抜かない限り普通には走れまする(笑。
実はうちのnumako号の夏タイヤにも釘が刺さっていて、冬タイヤから替える時期に親父が見付けて抜いてしまっていたんです。勿論空気はすっかり抜けていました。
慌てて抜かなくてもいいのに~_| ̄|○
ところで猫淵神社、私も行ってみました!
ご心配いただきましてありがとうございました。
漏れはありませんでしたが、わかっていながら注意しているというのもなんですから、早速馴染みの修理工場にて修理済みです。
numakoさん
初コメントありがとうこざいます。
蒼い彗星号よりはかなり林道、山道向きです。
新車で直ぐに高楢山、物見山を制覇、ボディは傷だらけ・・・それでも「いだますぐねがったす」・・・というか、最初からこれですからあきらめました。
氷口峠・・草木以外はすんなり制覇といったところでした。
猫淵神社、いかれましたか・・・これであなたも猫仲間です・・笑
看板をモノ欲しそうにちらりと眺めつつ、先に進むと正に、植木で作ったどーぶつ達↑に遭遇しました。
なかなか目立ちますよね(笑)。
「鮎貝舘跡」は見ていませんが、「こごみ沢」の辺りにも金山と舘跡がございました。
とらねこさんは既にご存知ですね。
クギ・・・ですか;
拾うときは拾うものですね;
どうやら、「山猫道」を走ると、おまけで付いてくるようですね(まさか;)。
私も残念ながら峠は越えたことがありません(汗)
tamachiyo嬢にはお勧めのスポットとしてお話した気がしておりましたが・・・・(恥)
タイヤはほいほいドラゴン様のところで手当てですか???
フットワークのいい分拾い物も多いようで・・・
大事に至らず良かったとしましょう!
青い彗星号の下回りには未だに荒川高原の牧草が絡み付いています。
いい記念だ!(トレッチュウニ)
氷口、遊井名田、鮎貝・・・かろうじて鮎貝が一発漢字変換出来ますが、難読です。
ぜひとも、クルマではなく、自分の足で逍遥してみたいです。
氷口峠も徒歩なら脱輪などしないでしょう!(大爆)
子供のころから食べていたのかもう薄れ行く記憶ですが舌だけはきっといつまでも覚えているでしょうね
あ~~生が欲しい
そういえば以前動物の庭木について触れられていた・・と記憶していたような・・・そんな思いながらも飛びついてしまいました・・・笑
氷口峠・・・通り抜け、夏以外は可能ではありますが、止めておいたほうがよいものと思います。
舘址、金山址勿論承知してますがまだ未踏です。
romiさん
ありがとうございます。
タイヤは馴染みの修理工場で対応済みです。
いずれ、私も少しは慎まねばと考えておりますが、フットワークが軽い分、色々と制覇したくなります・・汗
yamanekoさん
同士となってしまいました・・・汗
無論、歩きでも制覇は可能ですし、それほどの距離でもないですから、大丈夫かとは思います。
しかし、黒い動物との遭遇はお気をつけください。
一人静様
生が美味い季節ですよね、南蛮味噌を肴に・・・たまりません。
是非にお里帰りの際はご堪能ください。