遠野のはじめ・・・・太古の遠野の創始に関る内容ではなく、阿曽沼氏による遠野統治の初期について記したいと思います。
奥州平泉の藤原氏が源頼朝により倒されると、奥州各地は鎌倉御家人とされる武家へ分け与えられたと伝えられております。
遠野も下野国佐野の御家人、阿曽沼広綱に与えられ、以後阿曽沼氏の統治下だったといわれますが、広綱は重臣の宇夫方広房を代官として高屋八郎を随伴して遠野へ下向させ、阿曽沼氏歴代は下野国で遠野を遠隔統治していたといわれます。
その代官たる宇夫方氏が遠野へ入って最初に落ち着いた先が現松崎町駒木、下駒木中村の地といわれ、大沢川を堀として仮館を築いたところと伝承されております。
大沢川・・・館跡北東部分

鎌倉武士団特有の平城系の城館跡で、後に綾織二日町に築かれた宇夫方氏の主館、谷地館も同様の造りだったと思われる。
宇夫方氏は、後に屋号堀合を名乗る(現堀内家)当時盛平家と呼ばれていた現地豪家の援助を受け、本格的な城の建設場所を見出すべく最初の拠点としたとされます。
遠野最古の八幡神社とされる社(伝・宇夫方氏による創建・八幡大菩薩を祀っていた)

屋号下堀合の敷地内にある現稲荷社は、かつては八幡神社であったといわれ、近年、社の建替に合わせて稲荷大明神を合祀して現在に至る。
八幡神社は駒木⇒宮代八幡⇒遠野八幡宮といった歴史的経過があるといわれますが、真相は不明、しかし、歴史的何かが介在する由緒ある社であろう・・・。
(確か私の少年時代は八幡様だったような、現在は稲荷神社の札が掲げられている)
余談ですが・・・・
横田城(光興寺)の築城は建保年間(1211~1218)と語られますが、城館跡の構造やら雰囲気ではどう考えても戦国時代か?そして宇夫方氏と共に文治5年に下向したとされる高屋八郎、こちらは後に古書等に名が加えられた雰囲気が感じられ、城館跡調査に伴い高屋氏が居たという館跡を見出すことはできず、しかも高屋氏は天正年間(戦国時代)に葛西領江刺氏家臣で天正年間における江刺氏の内訌か主家没落時に遠野へ逃れてきた一派であるのは間違いないものと思います。
ただし、それ以前に江刺から遠野へ移って来た高屋氏の一族が居なかったとはいえないものもございます。
堀合・下堀合の屋号と共に姓名を堀内とする御宅が密集する下駒木下村

ちなみに我家で別当を務める愛宕神社も宇夫方氏により館の東方を鎮守する為に建立されたといわれておりますが、こちらも真相はわからず・・・一応、私は遠野で一番古い愛宕様が我家に縁ある社であると思い込んでおります・・・汗
おまけ
「金輪際」こんりんざい
「金輪際、もういたしません・・・」とか、何かに懲りた時の思いに代表される表現の仕方ですが、仏教観では「金輪」とはこの世界の地下深くに「金輪」とよばれる層があって、世界を支えているそうです。
そこは、我々にとっては、もう後のない地下の果てということになります。
奥州平泉の藤原氏が源頼朝により倒されると、奥州各地は鎌倉御家人とされる武家へ分け与えられたと伝えられております。
遠野も下野国佐野の御家人、阿曽沼広綱に与えられ、以後阿曽沼氏の統治下だったといわれますが、広綱は重臣の宇夫方広房を代官として高屋八郎を随伴して遠野へ下向させ、阿曽沼氏歴代は下野国で遠野を遠隔統治していたといわれます。
その代官たる宇夫方氏が遠野へ入って最初に落ち着いた先が現松崎町駒木、下駒木中村の地といわれ、大沢川を堀として仮館を築いたところと伝承されております。
大沢川・・・館跡北東部分

鎌倉武士団特有の平城系の城館跡で、後に綾織二日町に築かれた宇夫方氏の主館、谷地館も同様の造りだったと思われる。
宇夫方氏は、後に屋号堀合を名乗る(現堀内家)当時盛平家と呼ばれていた現地豪家の援助を受け、本格的な城の建設場所を見出すべく最初の拠点としたとされます。
遠野最古の八幡神社とされる社(伝・宇夫方氏による創建・八幡大菩薩を祀っていた)

屋号下堀合の敷地内にある現稲荷社は、かつては八幡神社であったといわれ、近年、社の建替に合わせて稲荷大明神を合祀して現在に至る。
八幡神社は駒木⇒宮代八幡⇒遠野八幡宮といった歴史的経過があるといわれますが、真相は不明、しかし、歴史的何かが介在する由緒ある社であろう・・・。
(確か私の少年時代は八幡様だったような、現在は稲荷神社の札が掲げられている)
余談ですが・・・・
横田城(光興寺)の築城は建保年間(1211~1218)と語られますが、城館跡の構造やら雰囲気ではどう考えても戦国時代か?そして宇夫方氏と共に文治5年に下向したとされる高屋八郎、こちらは後に古書等に名が加えられた雰囲気が感じられ、城館跡調査に伴い高屋氏が居たという館跡を見出すことはできず、しかも高屋氏は天正年間(戦国時代)に葛西領江刺氏家臣で天正年間における江刺氏の内訌か主家没落時に遠野へ逃れてきた一派であるのは間違いないものと思います。
ただし、それ以前に江刺から遠野へ移って来た高屋氏の一族が居なかったとはいえないものもございます。
堀合・下堀合の屋号と共に姓名を堀内とする御宅が密集する下駒木下村

ちなみに我家で別当を務める愛宕神社も宇夫方氏により館の東方を鎮守する為に建立されたといわれておりますが、こちらも真相はわからず・・・一応、私は遠野で一番古い愛宕様が我家に縁ある社であると思い込んでおります・・・汗
おまけ
「金輪際」こんりんざい
「金輪際、もういたしません・・・」とか、何かに懲りた時の思いに代表される表現の仕方ですが、仏教観では「金輪」とはこの世界の地下深くに「金輪」とよばれる層があって、世界を支えているそうです。
そこは、我々にとっては、もう後のない地下の果てということになります。
以前調査したときに見た棟札には「舘神」となっておりました。更に、傍らの稲荷社を合祀とも記されて居りました。そして、屋根の社紋は巴紋で、八幡様の紋でしたので、おそらく、以前は八幡神社だったと思います。
が、何となく「あの辺」かなぁと推測します。
が、宮代の元八幡のそのまたルーツが~
ふしぎの里のレイライン(笑)上には当たりませんが、意味深なことです。
ッヘェー!
金輪際の語源が面白いですね。
私達って、知らない内に仏教用語使っていますよね。
「今度こそ逃がさねぇぞ、奈落!」
・・・・・・ひつれい、「奈落」違いでした。
数年前は説明書きが書かれた板がありましたが、そこには館神と共に八幡神社とあったような、また文治5年代官宇夫方氏の創建みたいな内容も書かれてましたが、本日はございませんでした。
おそらく社の中に掲げているものと思います。
以前から八幡様と認識しておりますが、現在は稲荷神社のみの表示でした。
此処は地元の方しかわからない場所でもあると思います。
まさに八幡様の遠野でのルーツと考えられている社だと思います。
そういえば駒木には八幡様ばかりではなく愛宕神社、さらに加茂神社の前進があったともいわれております。
まさに遠野阿曽沼時代のルーツたる由縁が此処駒木にあると思います。
そうしますとレイラインは後の時代に構築されたということになりますね、いずれ最初は領主阿曽沼氏の代官として宇夫方氏が下向したとされてますから、レイライン上の社等は本格下向した阿曽沼主家によるものか?
次回、場所はお教えしますので是非に・・・。
遠野建築士界の重鎮であられた某設計士さん縁の堀の内集落、此処が遠野阿曽沼時代の起源という思いがする雰囲気は確かにあります。
大沢川と周囲の沢を天然の水堀とし、大沢川も両岸を人工的に掘削した形跡も認められ、おそらく防御を考慮した屋方があったものと思います。
護摩堂館すなわち横田城に移ったこと、こちらは奥が深そうでもありますが、時代背景は勿論、宇夫方氏との関係、下野本国から下向した阿曽沼一族と前が後に下向した阿曽沼庶流の一族、これらが何かしら絡み合っている雰囲気もございます。
こちらは追々と・・・・。
遠野ではかなり古き時代より人が住めり場所なりと言へり・・某の畑今の消防屯所付近にありて、昔より
やじり、土器、等出土せることはなはだ多し・・
某、以前トラクターにて畑を打ちし時、決まって同じ場所にてロータリーに大きな石当たる所ありけり・・
邪魔にて掘り起こしたれば多きの石、堀おこされたり
これ、某の推測なれば、古代の「くど」と思われしと語りたり・・
以前より地元の老人、鏃、土器、等拾い歩きたる事
見しも、某、興味なく今に至れり・・
どんどはれ
上の山というくらいですから、猿ヶ石川の上方にあった集落かなとも思ってました。
地元古老の話では猿ヶ石川は山沿いを流れ、今の上の山の市道辺りを流れていたような見解もございますが、石器等の存在があるとすればそれ以前はまた違った地形だったかもしれませんね。
いずれ昔のことは闇の中といった具合です。