「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

古戦場・樺坂峠

2006-12-01 14:18:24 | 歴史・民俗
 白いものがチラホラと舞い散る師走、いよいよ12月、1年はあっという間ですな・・・。

 さて「古戦場・樺坂峠」・・・・

 樺坂峠といえば貞任高原や琴畑牧場方面の大槌町や川井村との境目付近の峠を思い浮かべる方々も多いと思いますが、遠野郷土史通では、気仙郡と遠野市との境、すなわち小友と住田町との境の樺坂峠のことを指しております。

小友町荷沢の標柱

 標柱が示めされているだけでは具体的にどの場所を指すのかはわからない、そこで山猫となって、目星をつけていた林道に愛車である濁酒特区スッケ号を密かに侵入させました。

通行禁止区域と共に樺山の文字が・・・・樺坂・・樺山・・何かしら雰囲気が近い・・・。


林道突入

 季節もありますが、割と・・・割とですよ、走りやすい林道・・・しかし、倒木やら落石箇所も有・・・普通車はやめておいた方が無難ですが、何よりも通行禁止ですからね・・・。

 さて峠道といいますか林道をかなり奥深く侵入・・・山も深くなり、合戦が行なわれたような雰囲気は掴めない、カーナビでは道無きところを私は走っていることになりますが、この先には住田牧場の文字が・・・そうしますと蕨峠も近くということになりますが、ここで断念・・・広い箇所を見つけてUターン。

住田方面


峠道


 
 決戦、樺坂峠の戦い

 時は慶長6年(1601)12月、遠野の政変で遠野を追われた前遠野領主、阿曽沼広長は気仙世田米城主(住田町)、舅とされる世田米修理広久の援助と共に伊達政宗の後援を受けて、気仙勢を借受けて三度の遠野奪還の戦いを繰り広げたが一度目は気仙郡平田(住田町下有住)、二度目は赤羽根峠で合戦に及んだが、尽く遠野勢に阻まれ、無念の敗退を続けていた。

 三度目となる遠野奪還の戦いは、伊達政宗の意を受けた葛西浪人衆と共に年取りは遠野横田城での思いを募らせての出陣でもあり、3度目は樺坂峠から遠野へ侵入して小友、鱒沢を突破する作戦でもありましたが、迎撃に出た遠野勢、小友平清水を領する(小友長野)平清水駿河が待ち構え、さらに奥友(小友)舘の菊池喜左衛門も手勢を率いて樺坂峠へ布陣、平清水駿河の人並み外れた武勇も語られますが、季節は冬、合戦が始まると吹雪となって、しかも吹雪は攻め寄せる気仙勢の正面に吹き付けたといわれ、気仙勢は休戦を申し入れて各々山野へ入って焚き火等をして暖をとっていたそうですが、遠野勢はその場所を急襲、気仙勢は大敗に追い込まれて撤退、阿曽沼広長の遠野奪還は夢と消え去った戦いでもありました。

 
 峠での戦いでもあり、両軍が相まみえる広い場所は見当たらない、いずれ、兵どもが夢の跡・・・は山中深くに静かに眠っている・・・ということにいたします。



 荷沢バス停から東側へ入った集落を望む・・・・実は此処は気仙郡住田町、最寄バス停は遠野の荷沢、国道沿いのお宅は遠野市、少し入れば近所でも住田町です。



 おまけ

 小友を取材後は、城舘探訪を実施、遠野町の程洞稲荷神社一帯が程洞舘なそうで、その場所を探訪・・・すると・・・「あおすす」が・・・カモシカの夫婦が・・・黒いのと、白いのが・・・・画像を何枚かゲットしたつもりがズームが足りない、ピンポケ多数あり・・・一番マシな画像がこれ↓です。



 見づらいですが白いのもいますよ・・。
コメント (12)
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